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月の声の聞こえる夜に〜GXとΖ〜

 その日の月を私は忘れることが出来ません。1996年4月5日――ガンダムXの第一話が放送されたあの日の満月を。冴え冴えとして静かに地上を見守るかのようなあの月の下を帰途についた私は、帰宅してすぐに録画をしておいた第一話を巻き戻して再生したのです。

 「かつて、戦争があった。」

 黒字に白く「GUNDAM X」とだけ浮かんだタイトルの後、聞いたこともないような静かな声で始まったこのナレーションに、私の耳は釘付けになりました。そこで語られるのはまるでファーストガンダムで描かれた一年戦争。地球が滅ぶかのような戦いの十五年後とは聞いていましたが、よもやこんな始まり方をするとはさすが高松さんだ、なんて画面を見ながらその時は思いました。が、オープニングの思わせぶりな歌詞、静かで動きには欠けるかもしれないけれどドラマチックな画面に引き込まれ、そして本編が始まったと思ったらあのナレーションが続いている……!しかも荒廃した地上を映しながら「しかし人は生き続けていた。生き続けなければならなかった。」と淡々と語られてしまい、これははまるかも知れないと思ったのでした。

 その後第一話は、ザブングルを思わせるような荒廃した世界でたくましく生きる人たちを描きつつ、ファーストガンダムへのオマージュを絡めながらガロードの行動を追っていきます。写真のティファに一目惚れするガロード、彼の行動力とおびえるティファを見てとっさに逃げる判断の素早さ。言葉少ないながらも神秘的で存在感のあるティファ。うまく行くと分かっていても「俺、神様信じる!」と喜ぶガロードに良かったねとうなづきながら、あ〜またやってるよとツッコミを入れてしまった起動シーン。ティファを追うMSを撃退したは良いものの現れるガンダム2機と地上戦艦。そしてジャミルが口を開く――「月は出ているか?」何?タイトルって台詞だったの??純粋な驚きの中、緊迫した状況のまま続く王道の幕引き。かと思ったらいきなり予告とエンディングが重なってる意表をついた構成に面食らい、しかも歌詞英語だし、第二話のタイトルもまた台詞。2日前の「天空のエスカフローネ」#1も凄かったけど、GXはとんでもないや。というのがこの時の感想でした。

 もうとにかくこれではまってしまったんですね。その後順当に艦長にはまり医者にはまり……でずるずるとGXにのめっていきました。ガロードとティファという十五歳なふたりと、かつて少年だったジャミルの物語が並行して語られるという構成が凄く好きになりました。ジャミルもテクスも過去を持った大人、それをこうも正面切って描こうとするなんてあまり見られたものじゃないよなというのが正直な感想でした。

 でもそれだけじゃなかったんですね。新世代と旧世代を描いたガンダムって以前にもありましたから。GX監督の高松さんが設定制作として参加していた「機動戦士Ζガンダム」もその一つです。一年戦争から七年後、かつての英雄(旧世代)と新世代の少年という複数の視点で物語が進むこの作品に、私は放映当時からはまっていました。「かつて戦争があった」世界を描くという点で、GXは高松版Ζと読めるところもあったのです。実際、重なるモチーフも多くあり、ご本人がそう思ってなくてもそう見えてしまうんですよと書いてしまわざるを得ない作品です。Ζを重ねて見てしまった、という部分を無視することはできません。勿論それだけでは、ここまでGXを好きになったとは思えません。GXの正直さとか、温かさとか、優しさとか。それがあったからGXがこんなに好きだと思うのですね。

 どのあたりがΖかと言いましても、実に色々とあるのですよね。例えば、GXラスト2話の敵味方全員集合で演説大会というあたりも、Ζ最終話の劇場のシーンを思わせますが、やはりD.O.M.Eの告白でしょうね。あれをして「ニュータイプ否定」ととらえて怒る人もいらっしゃるのですが、あれは「ニュータイプが人の革新である」ことを否定しただけで、「ニュータイプ」も「人の革新」もそれぞれでは否定していないのですね。「ニュータイプだってそうよ、そんなもの初めからないのに、そのために戦いが起こって」――これはGXではなく、Ζ#48「ロザミアの中で」の劇中で語られた台詞です。こちらの方が余程ニュータイプを否定しているのですよね。『ニュータイプは人の革新である』それは、ただの理想だ。だから「ニュータイプに出来ることといったら、人殺しだけみたいだな」という主人公カミーユの台詞が同じ話で語られているのです。ここで、D.O.M.Eと同じ結論へ至る道が既に示されていると読むこともできます。だからGXを否定するならまずΖから否定しなさいよね、と私は思ってしまいます。既にしている人なら文句は言わないけど(笑)で、Ζでのそれは現実の冷たさが前面に出ているのに対し、GXは「さ、これからが本当の新世紀だよ」という未来へ向けた視線が感じられて、GXの第一話ナレーションにあった「生き続けなければならなかった」辛さとは違う「生きていこうとする」希望があって、そんな皆を見守る優しさがGXなんだなぁと思うのです。

 ところで、かつて少年であったジャミル――ランスローと刻を見て、死にゆく人間の命の叫びを一度に多量に受け止めるとどうなってしまうか知っているという彼――をメインに見て行くと、どうしてもΖ寄りな感じになってしまいます。ちょっと脇にそれますが、コミックボンボンに掲載されたGX外伝(ときた版GXコミックス第3巻に収録されています)でジャミルのバイザーが割れた時にはどうしようかと思ってしまいましたが、こんなの私だけですね(苦笑)というのも、Ζの最終話でもカミーユのバイザーが割れるからでして、その印象が強かったのです。

 ですが、そういうΖな話とは関係なく、ガロードは本当に素直で良い子だったなぁと思うのです。初志貫徹したというか、大きくなった部分もあるけど、基本的にはティファらぶらぶを貫き通して。誰かを愛しく思う気持ちがあればそれでひとは生きてゆける。それで良いじゃないって思えるのですね。他のキャラもみんなそう。基本的にGXって悪人がいない世界だったんですね。誰の心にも傷があって、誰だって誰かを愛したくて。あ、例外的に自己愛に走ってたのがドーザ・バロイ様ですねぇ(笑)まぁでもあのキャラは、そこまで悪役に徹していられたらそれはそれで気持ち良いぞという珍しいお人でした。ザイデルとブラッドマンも自己愛の人だったのかしら?でもあの二人も、それなりに「指導者」として背負っているものがあったのは確かなのでしょうけど。でも彼らが死ななければならなかったのは、GXの世界における「生きる資格」である「誰かを愛しく思う気持ち」を忘れたからなのかも知れませんね。

 だからあの世界で一番愛を貫いたガロードと、ある意味でそれに匹敵していたフロスト兄弟とでは勝負がつかなかったのかも知れません。フロスト兄弟というのは二人という集団の最小単位で構成された世界の住人でした。二人でいるところこそが世界のはずなのに、何故「カテゴリーF」などと呼ばれ蔑まれなければならないのか彼らにはずっと理解できなかったのでしょう。だからそんな「偽りの世界」――ニュータイプこそが人類の革新であり、人の次なる有能な姿の具現と思われている世界――を壊そうとしたのでしょう。でもそこはガロードにとっては自分の生きている世界だった。本来彼の生きる世界では、ニュータイプがどうしたとか地球圏の覇権がどうしたというのは全く関係がないのだけど、フロスト兄弟の視点では彼はまさに邪魔者だった。というよりは単にニュータイプ専用機であるGX(を駆るもの)を憎んでいたという方がわかりやすいのですけどね。とにもかくにも、自分の生きる世界とそこに向けた愛を守る為の戦いというのがあの最終決戦だったのかも知れません。だから勝負なんて付かないのかな、と。うーん、フロスト兄弟は深いです。ラストまで見届けた後に最初から見直すと、色々見えてきて面白いですよ。是非今一度ご覧あれ。

 そしてD.O.M.E。彼は愛されたかった人物なのかも知れません。偶像でもなく畏怖の対象でもない、人間としての自分を。そんな彼と交流できる少女・ティファと出会えて、「僕の話」を語ることが出来て、彼の長い長い一生はやっと終ることができたのかも知れません。彼の声がナレーターと同じ光岡湧太郎さんだというのは、三人称で語られていたと思ったナレーションが実は一人称だったのか?と考えられて凄く面白くて好きなのです。思えばこの人のナレーションのおかげでGXに引きずり込まれた私としては、ラスト2話は彼の声に聞き惚れていられてそういう意味でもシアワセでしたね。

 「月は、いつもそこにある。」最終話の最後の台詞がこれでした。最終話を見た後、窓の外に冴え冴えとした朝の月が浮かんでいて、何だか凄く不思議な気持ちになりました。でも、この月に始まり月に終ったタイトルのおかげで、今も月を見る度にGXの事を思い出します。そして、GXを見守ってくれたあの月のことを。

(9707.18)




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