Camille Laboratory : ZEGAPAIN Topゼーガペイン>創作小説

distance of two
二人の距離




KYO & SIZUNO
entanglement01「エンタングル」より




 ソゴル・キョウは、その日も母が作っておいてくれた夕食を一人で食べた後、リンゴを片手に物思いに耽っていた。それはいつもと同じ夜、でもその日は何かが違っていた。

 その日の昼間、舞浜南高校のプールで見かけた謎の美少女。長い黒髪に彩られた、涼やかな面立ち。確かに彼女はキョウを見て、声にならない声で何かを告げたのに、彼女はそのままプールに飛び込んで姿を消してしまった。
 だが、キョウを追ってプールに来たカミナギ・リョーコは彼女を見ていないという。映研部員で自主制作映画を撮っていたリョーコのデジカムにも、彼女の姿は映っていなかった。ではキョウが見た彼女は、本当にそこに存在していたのだろうか。そして、あの艶を帯びた唇はキョウに何を告げたのだろう。

 母が食卓に置いてくれていた季節はずれのリンゴ。それは知恵の実だともいう。
 それをキョウが口にした時、何かが変わったとでもいうのだろうか。

 ふとキョウはリョーコにメールを出すと、向かい側の部屋のバルコニーに出てきたリョーコに向かってリンゴを投げて渡した。
 リョーコとはマンションのお隣さん同士、気の置けない幼なじみの同級生。昼間のことを詫びながら他愛ない話をし、話題がプールの彼女に及んだ時、彼女の言ったことが突然キョウには理解できてしまった。
『この世界を、救って』
 それが何もかもの始まりだった。楽園からの追放にも似た、ありふれた日常からの逸脱。彼女に導かれてキョウは水の向こう側へ──世界の壁を、越えた。


「なぁカミナギ、聞いてくれよ。昨夜あれから、とんでもねぇことになったんだぜ!」
 いつもと同じ朝、いつもと同じ時間のマンションのロビー。向かい側のエレベーターから出てきたリョーコに、キョウは興奮冷めやらぬという恰好で駆け寄った。
「おはよキョウちゃん。──昨夜って?」
「お前と携帯で話してて、オレんちがピカッて光ってからだよ」
「何それ?」
 目をぱちくりさせるリョーコに、キョウは詰め寄った。
「お前が言ったんじゃねぇか。お前に言われて、ウチを振り向いたら、窓がうわぁって光ってて」
 リョーコは釈然としないという面持ちで答えた。
「知らないよそんなの。彼女がビデオに出てくれたら良いねってキョウちゃんが言って、じゃ明日トミガイ君にも頼んでまた一緒に探そうねって、じゃあおやすみって。それで昨夜の話は終わったじゃない」
「……そんなの、聞いてねぇぞ」
 キョウが覚えている限り、会話は家が光った時点で中断されてそれっきりのはずだ。リョーコははぁっと息を付いて、呆れたように言ってのけた。

「夢でも見たんじゃないの?」
「夢なんかじゃねぇよ! あれから光を追いかけてったら、変な平面人間に取り囲まれて、それが消えたと思ったら、ミサキ・シズノがウチに居たんだよ」
 勢いに任せて喋るキョウが口にした名前を、リョーコは繰り返して訊いた。
「ミサキ、シズノ?」
「彼女だよ、ほら言っただろ、プールに居た」
「あぁ、じゃ良かったじゃない。ビデオに出てくれるって?」
「……まぁ、出てくれるっていうんだけどさ、代わりに、この世界を救ってと言われた」
 リョーコは、真剣そのもののキョウの顔をまじまじと覗き込んで黙り込み、ようやく口を開いた。
「──なにそれ」
「よくわかんねぇんだけどさ、とにかく、光るロボットに乗って戦うことになっちまったんだよ」
「やっぱ夢だよ、それ」
 リョーコの声のトーンがあからさまに下がるのに、キョウのテンションは上がる一方だ。

「どうして夢だって言えるんだよ、あんなリアルな夢があってたまるかよ! オレの体が全部覚えてんだ」
 キョウは胸元で拳を握り締めて、目蓋を伏せた。脳裏には、あの異世界の光景が広がる。
 夕暮れの空の下、どこまでも広がる無人の廃墟。その中に、光を纏うロボットの燦然とした姿。それは自分の思うとおりに動く、さながらキョウ自身の身体。リアシートにはミサキ・シズノが居て。
「ぐっと握って、ぶつかって、斬って、撃って、飛んで──それから、熱いキスを……」
 何の気なしにそう言ってしまったキョウは、自分の言葉にはっとして目を開く。眼前のリョーコは唖然として目を丸くしていたが、キョウが目を開いたからか、ぷいっと顔を背けてしまった。
「バカみたい、何の話かと思ったら。聞いて損した」
「お、おぃちょっと待ってくれよ、カミナギっ!」
 つかつかと歩み去るリョーコを、キョウは小走りに追いかけた。

 リョーコなら信じてくれる。そう思っていたのだろうか、こんな、夢みたいな話を。
 それでも、あれは夢などではないとキョウは確信していた。あの時は分からなかったけれど、家の中の光を追いかけていった先でキョウが窓の外に見たのは、間違いなくあのロボット──ゼーガペイン・アルティールだった。
 そして彼女に導かれて……あの異世界で彼女は、自分からミサキ・シズノと名乗った。その名前は不思議と以前から知っているような気がしてならない。ゼーガペインと同じくらい、自分の身に馴染んでいるとキョウには感じられた。
 シズノは最新のヴァーチャルゲームだと思って、と言ったけれど、ゼーガペインとあの世界には決してゲームとは思えないリアルさがあった。コントロールグリップを握って、戦場を駆け抜けたあの感覚。衝撃に感じた、確かな痛み。微かに走り抜けた恐怖はキョウの背筋を冷やしたのだ。でもその一方で、大丈夫だという声がどこかから響いていた。後ろには、彼女が居るのだからと。

『私を信じて』
 その彼女の言葉を、信じている自分が居る。
 そしてあの世界では、自分は今、確かに生きているという実感があった。あれが夢ならそんなことはありえない。
 あの世界で自分が生きているというのなら、今ここに居る自分は果たして何だというのか。キョウは自分の手を見つめたまま握り締めて、その手が覚えているあの世界の感触を思い出していた。
 ──それは限りなく近く、そして果てしなく遠いところ。あんなに近くに居たのに、確かにこの手で触れたのに、消えてしまった彼女との距離に似て。

 彼女は……ミサキ・シズノは今、どこに居るのだろう。
 この唇に、熱い感触を残して。





 彼は……ソゴル・キョウは今、どうしているのだろう。
 この唇に、熱い感触を残して。

「信じているわ、キョウ。また会いましょう」
 そう告げて、シズノは舞浜から姿を消した。シズノから彼に触れた唇には、彼の感触がはっきりと残っている。あの日のキスを思い出させる、彼以外の何者でもないその感触。でも彼はシズノにそれを教えてくれた彼であって彼ではない。
 ──それは限りなく同等のものでありながら、はっきりと異なるもの。ずっとあんなに近くに居たのに、確かにこの手で触れたのに、今はもう遠い彼との距離に似て。


「君、名前は?」
 シズノが居たのは舞浜南高校のプールの飛び込み台の上。彼が何度も聞かせてくれた舞浜の、水泳部員の彼がいつも居たというプール。
 舞浜に降りることになればここに来よう、彼のように泳いでみよう。シズノはずっとそう思っていたのだけれど、思いがけずプールに姿を見せたキョウのその言葉に、シズノは愕然とするしかなかった。
 ──何故貴方が、また私にそれを訊くの? 貴方が私にミサキ・シズノという名を付けてくれたというのに。それにまだ、早すぎる。

 それは、キョウがシズノのことを忘れてしまったことを残酷に告げる言葉。こうなることは分かっていたのに。思いのたけは自分の口から流れ出る、でも彼にシズノの声は聞こえていないようだ。あの時届かなかった手と同じように、今は届かない言葉。いたたまれずに、シズノはプールに飛び込んだ。

 冷たい水のように、無性に悲しい波が押し寄せる一方で、シズノの心にはほのかな歓喜も芽生えていた。
 キョウはまだ回復していない。だからシズノの声は彼に届かなかった。けれど彼は舞浜に来たばかりのシズノを見つけてくれた。誰よりも早く、その瞳で見つめてくれた。たとえ彼がシズノのことを忘れてしまっていたとしても、シズノは決して忘れることのない、彼のあの瞳で。
 シズノの心の痛みの裏側にある、彼が今そこに居るのだという認識。それをシズノの実感に変えるには、彼に触れるしかない。そして彼がその実感を本物に変えるには、彼自身が世界を救うしかない。そのためには、彼に目覚めてもらわなくてはならない。そしてそのために、シズノは舞浜に来たのだから。


 オケアノスの司令室で、シマは静かに口を開いた。
「決めたのか、イェル」
「決めたんじゃないわ。約束したのよ、必ず迎えに行くって」
 シマにきっぱりと答えるシズノの声には、異論を挟ませない強い意思がこもっていた。いくらシマが命令系統にあってシズノの上位にあり、リブートしたばかりのソゴル・キョウが目覚めを待つ揺りかごである舞浜サーバーの管理責任を負う者であるとしても、シズノの決意の前にはそんな立場は霞むものだった。
「今君が舞浜に降りれば混乱は必至だ」
「それでも、手段を選んでいられる状況ではないでしょう」
「……そうだな」
 そのことはシマ自身が一番分かっていることだった。シズノを舞浜に降ろすことで、舞浜サーバーのシステム環境を乱すだけでなく、キョウ自身をも混乱させることになるとしても、何としても彼を戦列に復帰させて戦力を確保することが、オケアノス司令としてのシマの責務に他ならないからだ。今までも、そしてこれからも。
「なら、良いのね」
「キョウを、頼む」
 それが、シマに言える最大限の言葉だった。


 月面で、無数の敵と警告とに囲まれたアルティールのコクピット。キョウは振り向かないまま乾いた声でシズノに告げた。
「強く生きてくれ、シズノ。もし甦ったとしても、多分オレは、オレじゃない。……それでも」
 それが彼の最後の言葉。
「必ず行くわ、迎えに──キョウ!」
 それが彼への最後の言葉。それはシズノが果たさなければならない、約束。
 二人が互いに伸ばした手は触れ合うことはなかった。だから今度は、しっかりとその手を握り締めるのだと。

 彼自身によって警告は発せられていた。データ復元時のウェットダメージが不可避であるとも示されていた。そして、シズノ自身の手でサルベージされたキョウの幻体データは破損が酷く、予想通りその記憶領域の多くにウェットダメージを負ってしまった。それは、シズノと過ごした日々の記憶が失われたことも意味していた。

 それでも、と貴方は言ったのよ。
 それでも私に強く生きろと──或いは、それでも……貴方は私が愛した貴方だと。
 貴方がソゴル・キョウであるからこそ、私は貴方を愛しているわ。
 シズノは、唇が覚えている彼の感触を心の手で抱き締めた。あの日の熱さが、シズノの体に甦る。


 あの日──二人がアルティールで初出撃した日に、キョウがイェルに与えたものは二つ。ミサキ・シズノの名と、唇で確かめられる互いの存在という認識と。
 それをもう一度確かめたくて、そしてもっと知りたいと思って、イェルはキョウに向き合った。
「お願いがあるの。貴方の手で、私のデータを書き換えて」
「書き換えるって……オレには」
 確かにキョウもイェルも、幻体と呼ばれる量子データの塊にすぎない。だからと言って他人のデータを書き換えるなど、通常は管理者権限を持つセレブラントがやむを得ずにすることだ。戸惑いを隠さないキョウをイェルは見据えた。
「貴方にして欲しいの。いえ、貴方にしかできないのよ、キョウ」
 熱を帯びたイェルの瞳が、キョウを見上げている。キョウは彼女の頬にそっと触れた。柔らかな肌の、ひんやりとした表面の感触の内側の温もりが、頬に当てた手のひらに感じられる。それはきっと、彼女の心に燃えるもの。
「……シズノ」
 優しくその名を呼ばれて目蓋を伏せた彼女に、キョウは唇を寄せた。

 再び触れ合う二人の唇。今度は背中に回された彼の手が、強く体を抱き締めてくる。着衣越しに感じる彼の温もり──こんな風に、他人の体温を感じたことはあったろうか。
 彼の背中に手を回す、見知った彼の背中の、触れてみて初めて分かるその肉付きのたくましさ。それはただのデータにすぎない、そう分かっていても、今二人が触れ合っているという事実は変わらない。イェルをそこに存在させるデータの中を、未知のデータの奔流が駆け巡る。

 接近して向き合った二人の額にセレブアイコンが開く。イェルの緑のアイコンとキョウの青いアイコンとは輝きを増して、柔らかく、そしてまばゆい光が広がる。その光に包まれていく二人の体が触れ合ったところから、データが溶け合っていってしまいそうな、そんな錯覚さえ覚える。
 開いたポートから流れ込んでくるキョウの思惟が、イェルのデータを書き換えていく。彼女が望んだとおりに、彼がその名を呼ぶとおりに、ミサキ・シズノになるために。
 二人を包んでいた光がふわりと消えて、そっと唇を離したキョウが見つめた彼女の額には、キョウと同じ色の青いアイコンに『SIZUNO MISAKI』の文字が浮かんでいた。キョウが彼女に見せたものは、穏やかで柔らかな微笑み。

「ありがとう、キョウ」
 そう言って、シズノは今度は自分からキョウに唇を寄せる。キョウの唇がシズノを優しく受け止めて、再び触れ合う感触が通い合った。
 いつしか濡れた唇の、背中をまさぐる指先の、密着する胸元の、求め合い、絡み合う二人の体のありとあらゆる接点から、体温も、想いさえもが双方向に結線されるような感覚が走り抜けていく。その送受信にタイムラグは存在しなかった。
 このまま時が止まってしまえばいい。シズノはそうも思うのだけれど、それでは彼の大切なものを奪うことになる。でも今はこうして、触れ合っていたい。彼がシズノを抱いてくれている限り。

 この日、キョウがシズノから奪ったものは三つ。イェルの名と、その唇と、そして二人の間にあった距離と。互いの存在を自分の中に実感できる、想いを繋ぐ絆で結ばれて、この日、二人の距離はゼロになった。


「おかえりなさい、キョウ」
 再び巡ってきた二人の出会い。二人の距離は近くて遠い。それでも──とシズノは思う。再び彼がシズノと呼んでくれたなら、その日、二人の距離は再びゼロになるのだと。
 その日は何時になるのかわからないけれど、それまでは彼と共にあろうと。どんなことがあっても、もう二度とその手を離さないでいられるように。


(0612.07)



あとがき

 本編#01「エンタングル」と#02「セレブラム」の間というか、#02のサブタイトル前後の穴埋めと申しますか。最終話から戻る形でシズノ側の補完もしてみたくなり。キョウ側は時系列順ですが、シズノ側は逆順になってます。あれれっと思われたら、時が戻ってるという観点で読んでみてやってください。
 つかイェルなら自分でデータの書き換えできるだろ(最終話では自分でアイコン変えてたし)とは思いつつ、あれはキョウに書き換えてもらったという認識の方が重みがあるのだということで。──このあたりは何度か書いてしまっているのですが、本編#01と#20の印象がそれだけ強かったんですね。

 それと旧約聖書の「知恵の実」は本来はイチジクらしいんですが、ゼーガならやはり蛇とリンゴということで、敢えてリンゴ=知恵の実ということで。
 しかしこれ書いた直後に出たグレッグ・イーガンの短編集に『ふたりの距離』があったときにはびっくりでした(^^; これはこれで面白かったですよー。


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