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Ζをめぐる5つの誤解

■1. シャアが主人公であるという誤解

 放映開始前に良く知られていたサブアタックタイトルに「シャアの逆襲」として名を挙げ、EDクレジットの最初に名が出てくるシャアこそがΖの主人公であると言われるが、これは誤解である。
 主人公である以上は、物語を動かすのがその役割のはずである。確かにグリーン・オアシス襲撃やダカール演説など、彼の行動で変化した局面はあるのだが、彼は終始「歴史を動かす」ことから逃げようとしているように見えるのだ。それはダカール演説を終えてなお掛け続けるサングラスに象徴され、最終話において何の責任も取らずに退場するという結末に明らかである。
 勿論、そんなシャアを描くことこそがΖという物語であったのだと言われれば確かにその通りであるし、彼なしに物語を始めることも終ることも出来なかったのも事実。だが彼が登場しなかった話数において、その間の彼の行動が物語に与えた影響があったかというと疑問の余地が大きいのだ。もしシャアが登場した話数(全50話中39話)だけをΖだとするとどうなるかというシミュレーションは、プレイステーション版のシャアモードで体験が可能なのだが、随分あっさりとした話になってしまって、カタルシスに欠けるような気がしたものだ。尤もこれはカミーユモードでもそうだと言われればその通りなのだが、何が足りないのかを考えてみると、語られていない物語の多くがカミーユに依存していることに気付く。やはりΖの物語を動かしていたのはシャアではなくカミーユであったのだ。

■2. フォウがヒロインであるという誤解

 絵になるから、なのだろうか?Ζに関するイラストの多くはカミーユとシャアもしくはカミーユとフォウという組み合わせで描かれている。このうち前者に関しては二人とも主役だからという理由もあるのだろうが、後者に関してはどうやらフォウがヒロインだからという誤解があるからのようだ。というよりも、こうしたイラストのおかげでこの誤解が生まれているのかも知れない。
 確かにフォウがカミーユに与えた影響は大きく、視聴者に与えた印象もまた鮮烈ではある。しかしそれだけで彼女がヒロインと言えるのだろうか?ヒロインの条件にも様々なものがあるだろうが、もしフォウがヒロインであるのならファーストガンダムのヒロインがララァであってもよいはずだ。しかし、ファーストガンダムのヒロインといえばララァよりセイラを推す声が大きいようだ。これは何故なのだろうか?
 主人公の役割とは物語を動かすことだと先に書いた。その主人公の心の動きを描くのが物語だと言っても良い。とすれば、主人公と同様の心の動きが物語を通じて語られるキャラクターであってこそのヒロインというものが考えられるはずである。セイラがヒロインだと考えられるのはそのためであろう。となれば、Ζにあってはそのようなキャラクターはフォウではない。この場合、エマとレコア、そしてファの3人にヒロインとしての資格があるが、カミーユへの「近さ」から、ファをヒロインに推したい。

 フォウでもう一件、彼女が「カミーユのララァ」であるという誤解がある。ただこれは、ララァというキャラクターをどう捉えるかで判断が変わる。

・アムロとの交感を果たした人物である。
 フォウでも間違いではないのだが、より相応しいのはハマーンの方である。ファーストの「光る宇宙」に相当するのはΖでは「宇宙の渦」であるのだ。ただ面白いのが、これがΖΖではいきなり「シャングリラの少年」でのジュドーとカミーユに相当してしまうので、カミーユ自身がララァになってしまうのである。

・宿敵を撃とうとしたのに身代わりとして殺してしまった相手である。
 カミーユでこのケースに相当するのは、#30「ジェリド特攻」でジェリドを撃とうとして殺してしまったマウアーになる。しかし、カミーユとマウアーの間には何ら感情的な結びつきはなかった。このケースに近いのは寧ろ#46「シロッコ立つ」での、シロッコを撃とうとしてサラを殺してしまったカツという組み合わせの方である。やはりカツがアムロの弟子なのだ。

 ここで、そういえばカミーユはアムロの再来というよりもシャアの弟子であるということに気付く。そうすると以下の解釈が可能になる。

・シャアの身代わりに宿敵に殺されてしまった想い人である。
 この立場には確かにフォウが当てはまる。だから#36「永遠のフォウ」でのアムロとシャアの述懐では、シャアの「同じか……」の方が重みがあるのだ。

■3. Ζがガンダムであるという誤解

 名称にガンダムと入っていて、ツノが生えてて目が二つ、これは立派にガンダムなのだが……やはりMSZ-006をガンダムと呼ぶのは誤解ではないかと思ってしまうものである。トリコロールだからガンダムだという言い方もあるのだろうが、それは#1の「黒いガンダム」を見れば成立しない。
 何せ、あの機体にはふくらはぎがなければ顎も赤くないのである。後年制作された数々の「ガンダム」にしても、大抵主役クラスであればこの2点は押さえているというのに、堂々と無視しているΖというのは、その根性はガンダムでも良いよ、とくらいにしか思えない。百式の方がふくらはぎがある分まだガンダムに見えるというものだ。とまぁ、これは余談。

 機体としてのΖではなく、作品として「機動戦士ガンダム」の続編に見えないという点については、作品の成立年代に問題がある。「機動戦士ガンダム」以降の富野作品の流れの延長線上にあるという点を押さえずに、単にファーストの続編として見ようとしても違和感は払拭できない。放映当時の視聴者は大抵前作「重戦機エルガイム」は見ていただろうし、それを見ていればΖはその後継作品であることは間違いはない。であるから、いきなりガンダムシリーズの作品中年代順に見ようとするくらいなら、富野作品の成立年代順に見た方が、Ζには抵抗なく入れるのではないかと思えるのである。

■4. 最終話における誤解

 実に多くの場所で散見されるのが、シロッコがカミーユの精神崩壊を導いたというもの、または、あの状況が酸素欠乏症であるという記述である。これは、どちらも誤解である。
 大体からして、あの状況を導いたのはカミーユの自業自得であるのだ。彼があまりにも現実をそのままに受け入れ過ぎてしまったことが、彼の許容限界を超えてしまったという結末なのである。シロッコは止めを刺したのかも知れないが、彼が居ても居なくてもカミーユの結末が同じだというのは、小説版を読めば分かる。つまりは、ストレスが過剰に掛かり過ぎて精神外傷を引き起こしてしまったということであって、失外套性症候群(≒酸素欠乏症)というようなものではないということだ。勿論、失外套性症候群も回復しない症状ではないのでΖΖのラストを説明はできるのだが、これはテム・レイの一件の悪影響としか思えない。
 Ζの物語は、ただひたすらにカミーユを追いつめる構図を作り出すために構築されている。彼がいくら手を差し伸べてもそれが無に帰してゆく状況が、相手を変えながら何度も繰り返されるのだ。結局彼は無力感に捕らわれ、その中でぎりぎりまでテンションをあげてでも自分に出来ることを全うしようとする。それを決意させてしまったのがハマーンとの一件であったのだが、この経験はまるでガラス細工のように薄く張り詰めていた彼の心に楔を打ち込んだ形になった。そして彼は最終的に自らの限界を超えてしまったがために、内部から壊れてしまうのである。だからこそ、シロッコに向かって行った場面で彼のバイザーが内側から割れるという描写がなされているのだ。これがもし、彼がシロッコの外圧で壊れたというのであれば、バイザーは外側から割れていたはずである。

■5. カミーユが主人公であるという誤解

 ではカミーユこそが主人公であったのかというと、実はこれも誤解なのである。大変ややこしいことなのだが、彼は代行主役という立場が正しいように見えるのだ。
 Ζはカミーユを追いつめる物語であったと同時に、シャアをも追いつめる物語でもあった。カミーユは追いつめられる現実を受け入れたが、シャアはそれから逃げ続けたというのが物語の筋だ。これはΖが劇場版「逆襲のシャア」への布石として制作されたという状況の故もあるのだが、逃げ続けるシャアを主人公にしても物語が動かないので、彼を温存するための代行主役が必要になってカミーユというキャラクターが設定されたと見るとすっきりする。
 そこで、1年限りで無用になるキャラクターのモデルに、富野監督が当時恋をしていたと語るカミーユ・クローデルを選んだというのはよく分かる話なのだ。彼女はロダンの弟子兼愛人として知られる19世紀フランスの女性彫刻家なのだが、彼女を取り巻く現実に追いつめられ、孤独の果てに狂気に至ってしまうという末路はあまりにも鮮烈であり、こういう人物のドラマを描いてみたいというのは作家としては有り得ることなのだろう。だからか、カミーユの設定は少年でありながらどこか少女じみたところがあり、いっそシャアが主人公でカミーユはヒロインなのではなかったのかとさえ思えてしまうほどである。というのは半分冗談だとはいえ、シャアだけでもカミーユだけでもΖの物語を語ることができないのは事実であり、やはりこの二人が主役だったとするのが一番正しいΖの見方ではないかと思うのである。

(9811.26)


 これは、普段書いているものとは意図して書き方を変えてみたものです。自分は商業誌向けの文章を書くことは出来るのか? というのがテーマだったんです。別に依頼された訳ではなくて、商業誌の文章に不満を感じることが多かったもので、なら自分が書くのならどうなるか? と思ってやってみたんです。が、やはり地が出過ぎてますね(^^; いやーこれじゃ使えないわ〜とか思ってしまったんですが、折角なので日の目を見せてあげようかと。
 ただ、そんな訳でオチがそういう雰囲気にはなってます。だってこれが全く自分の好きに書いてるんだったら、「Ζの一番正しい見方だなんて、そんなのただひたすらにかみ子さん一筋じゃないのよーっ」がオチになるはずなんですから(笑) ただま、一つの文章の構成として、「5つの誤解」というお題を設けておいて、最初に否定したものを肯定してみせて振り出しに戻す、というものを試みてみたという次第。一種の思考実験ではありますが、やはりこの文章そのものが誤解なんでしょうか?


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