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物語と主人公

 カミーユ役を演じた飛田展男さんに、こんなことをお聞きしたことがあります。
「カミーユというキャラクターはあのΖという凄い状況の中でこそ生きるキャラクターだった。ΖΖにも登場して最後には元に戻ってはいるのだけれど、あの話はもう新しい世代の物語であって、カミーユのキャラクターとしての役割はΖで終っている」
 のだと。

 状況を変え表現を変え、同様の趣旨の言葉はくり返し飛田さんの口から語られています。それこそ、ΖΖ本放送終了直後からこれに類するコメントが出て来て、当時のわたしは戸惑ったものです。何故なら、当時のわたしにとって、ΖΖとはカミーユの救済のための物語に他ならず、その文脈においてΖΖの主人公はカミーユであったからです。

 尤も、今では飛田さんの一連の言葉を支えている「気分」が掴めたのではないかと思えています。カミーユは物語に生かされていた主人公なのだと考えると、例のLD-BOX 1の富野さんの言葉の意味も分かってくるような気がするのです。ただ飛田さんに話を戻すと、当時のテンションの高さとかあの作品を取り巻いていた全ての状況があまりにも特異であり、同じ状況など再現できないということもその感慨に至る要因なのでないかとも考えてしまいます。カミーユを思わせる要素を持ったキャラクターがどんなに居ても、Ζのような物語がない以上カミーユみたいなキャラクターは他に居ない。そういうことなのかも知れません。

 ところがぎっちょん、「カミーユさえ居ればその物語はΖとも言える」という言い方もあるのです。ΖΖのダブリン編などはその一例です。何だかさっきと因果関係が逆転しているのですが、あーいうとんでもないキャラクターでなければ、あのおハナシの主役など勤まらなかったとも言えそうです。実際、ホンコン編を経てカミーユが物語の中心に居るようになってからの物語が、Ζの本題だと言う事も出来そうですし(それまでは「機動戦士ガンダムパート2」なんですね)。カミーユは物語を背負ったというか、物語を取り込んでしまった主人公だった訳です。『カミーユに感情移入しにくいばかりにΖは難解である』というのはよくある評ですが、これとはまったく裏返しの『カミーユの視点で物語を見れば、Ζなんて凄くよく分かるのに』という気分に至ってしまった人は時既に遅し。Ζという物語ごと、あなたはカミーユに取り込まれてしまったのかも知れません。

(9907.24)


 というわけでさらにつづきです。『感情移入しにくい云々』とかっていうのは多分この少し前に出てた「富野由悠季全仕事」か何かの文面を指しているはずなんですが、商業誌の論評ってここから先になかなか出ないのね〜とか思ったものでした。そう思うと放映終了直後のラポートデラックスの永島収さんの文章なんて今でも通用する内容ですし、1994年のSTUDIO VOICEでのΖのLD-BOX発売の記事は一体どなたが書いたのだろうって気になるほどの名文でした。あぁいう文章、書けるようになりたいですね……←手前のはだらだらと長いんじゃい。


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