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新世紀と古典と

 正直、アルジェントソーマというのは、20世紀と21世紀のどちらの作品なのか悩みどころで。
 ミレニアムだと沸いた2000年こそ21世紀だという話の一方で、西暦0年がない以上2001年からが21世紀だという話もある訳でして。
 フツーに考えれば後者だろ、となるとアルジェントソーマは20世紀最後のサンライズ作品(の一つ)になるんだけど、終わったのは2001年だし、DVDのリリースを考えると21世紀に分類するべきなのかなぁとか。DVD映像特典のCMとか見てると、オフィシャルとしてはやはり「新世紀」的にアピールしてたようですし。

 確かにフルではないにしてもデジタル化が進んでて、映像表現としては21世紀に入ったものなんだろうなーとは思うんだけど……何となく20世紀に入れたくなってしまうのは、良い意味でこれは古典だなーと思うからなんでしょうか。

 確かに「左右非対称」に代表される絵的なセンスは相当特異ではあるとは思うし、設定考証面でも色々なアイディアが盛り込まれてて面白いんだけど、お話に関しては奇をてらわずにオーソドックスで直球な作り方をしてるなーと思うんです。伏線をちゃーんとまとめて、無限に広がる大風呂敷を綺麗にたたんでみせたというだけで近年では名作になっちゃうんだよなー、というのも何ですが。いや少々の破綻があった方が、中島梓じゃないが「高いレヴェルへの未完成」ということで後に残るものになる傾向にありますが。そういう意味では、アルジェントソーマは「相当高いレヴェルでひとまず完成」しちゃってるので、綺麗にまとまりすぎたのか、と思う所もあったり。あー綺麗に終わったねー、で終わっちゃったと。いや実際自分もその気があったもんで、余計に。初見時はとにかく謎解きというか、お話を追うだけで楽しくて、それがあんなに綺麗に終わるものだから、満足しちゃうんですね(ところが、再見すると、見逃してた伏線が一杯見えてきて、はまるんです(^^; ←ここに約一名)。

 だから、何か凄く新しいものを見たいという人には、その古典としての部分が合わないかも知れないなーとも思う次第で。或いは、GXなんかでもそうなんだけど、過去の作品へのオマージュとして散りばめられているネタの類が肌に合わないって人も居るだろうし(実際GXの第一話Aパートで挫折した人を知ってるし)。自分は全然平気だし、だからこそ「アルジェントソーマのツボ。」なんてものを嬉々として書いてる訳ですが。ウルトラマンも萩尾望都もスタートレックも好きですよえぇ。つか清水義範と今川泰宏と高松信司を愛しちゃってる段階でその嗜好は明らかなんですが(^^;

 ただ、そういったネタの類がアルジェントソーマの全てではないというのは先にも書いた通りで、じゃあアルジェントソーマってナニよ、と改めて考え直せば、古典と呼ばれる作品が書かれた頃から変わっていない人間の心の有様を描いた物語なんだろうなぁと思う訳でして。

 人間ってのは不器用な生き物で、何かに執着しないと生きていけない。生理的な欲求とは別に、精神的な欲求も持ち合わせてしまっているのが人間なのであって。しかしその生き様は時に生き汚く、みっともなく映る。だからこそ、その執着から逃れようとして悟りを得ようとしたりするひとも居るんだけど、それもまた執着という皮肉。本当に何ものからも解放された人が居たら、それはもう人間以上の存在な訳で。――だけど普通の人間はそうはいかない。リウの台詞通り、「みっともなく生き続ける」しかない。

 愛する人を失ったタクトの前に現れる謎の男。彼は「復讐か忘却か」の選択をタクトに迫る。そして彼女を失わせた相手の姿を目にして、タクトは失った愛の代わりに憎しみを得て復讐を選択する。選択肢のもう一方、忘却の果てにあるものは孤独であり、それは愛の対極にある概念だ。愛と憎しみは対極ではなく、単に執着の表裏の位相でしかない。誰かを愛さなくては生きてはいけない、なのにその愛を失ったら――誰かを憎んででも生きなければいけない。その結果Phase:24でのリウのあの一言に至る訳なんですが……憎むことは愛に似ているなんてさー、古典だよ古典(^^; でも、古典だからこそストレートに響くのね。タクト/リウ以外のキャラクターにしてもやはり基本に忠実というか、血が通ってるといううか、ほんと等身大で描けてるなーと思う訳でして。

 古典といえば、SFとしてもどちらかといえば古典の方向へ振ってるんだと思います(ネタという点でなく物語としてね)。そうだ、SFって夢や希望があったよね。というのか。いやそーゆー意味では「DTエイトロン」なんてのはSFとしては相当とんがってて、今ドキのSFの流れにちゃんと乗っかってるんですが。いやあれにも希望はなくはないんだけどさー(以下略) 却ってアルジェントソーマって、そりゃあの後は色々大変なのは目に見えてるけど、こんなに清々しいというか、気持ち良いエンドマークもないよなぁと。

 そう考えてくると、アルジェントソーマというのは、新世紀に敢えて古典を展開したという点で意味を持つ作品なんじゃないかと思ったりする訳です。新しいものを求めても、結局行き着く先というか落ち着くところというか、帰れる場所(笑)は古典なんだよーと。そう思えてならんのです。

 「知りたい、理解したい」――言葉は厄介なものだけれど、それでも「言葉は溝を埋めてくれる」と信じて、愛する人に向き合おうとすること。言葉だけでは伝わらないものを、どうやってその人に伝えたら良いのかを考えること。或いは、そうした努力を放棄して忘却を選んだ傷の深さ。お話の背景は確かに非日常的な空間ではあるのだけれど、この作品で描かれているのは、(やや極端なヒトも居るとはいえ)ごく普通の感情であり、どこにでも転がっている事例に響くものだと思うだけに、どこまで自分の物語として感じることができるかが、この作品に対する思いに繋がるんじゃないかと――ってやっぱりそれって古典の読み方のよーな気がするんです。はい。




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