少年達の間に、ある噂があった。
森の奥の湖には、魔物が棲んでいると。
あるものは巨大生物だといい、あるものは幽霊だと言う。
『姿はあったような、なかったような。とにかく気が付いたら倒されていたんだ』
まことしやかにそんなことを言う者まで現れて、少年達は騒然となった。
『じゃあ、俺が確かめてやる』
負けず嫌いのジャミルは、そう宣言したのである。
『お前も来るだろ? キナ』
当然のようにそう振り向くジャミルに、キナは勢いのままこくんと頷いてしまったのだ。
「だけどさ、湖ってこんなに遠かったっけ」
「もうすぐのはずなんだけどな……あれ?」
足を止めるジャミルの背中にぶつかるように、キナが尋ねる。
「どうしたの?」
「何の匂いだろ、これ……」
「分かんないな、花?」
たまらなく甘く香る匂いが、漂ってくるようだった。
「行ってみよう」
ジャミルは、小走りに匂いの元を追った。
「あった、湖! ……わっ」
急に体を翻すジャミルに、キナは今度は正面からまともにぶつかった。
「何だよ急に!」
「な、何か居る……」
目を見開いてそう告げるジャミルに、キナは問い返した。
「何かって、何だよ!」
森が開けた先の湖には、月明かりが差していた。
「見ろよ、あんな大きな魚なんていないだろ」
「魚?」
キナが覗くと、確かに湖面を何かが泳いでいる。
「魚じゃないな、人だ」
目を凝らすと、確かに人影が見えた。フゥと息をついて、ジャミルが復活した。
「そりゃそうだよ、あんな大きさの魚なんて……って、誰?」
研究室の周囲は、厳重に警戒されている。森に人が居れば、それは研究室内の人間ということに他ならない。
二人は、抜き足差し足でその場を離れようとした。
「そこの二人、出ていらっしゃい」
よく通る声が、二人の足を止めた。
振り向くと、月明かりにふわりと金髪を輝かせた、女性の姿があった。
逆光にもなって、よくは見えないが、さっきまで湖を泳いでいたそのままの、一糸纏わぬ姿である。
「ぼ、僕何も見てません!」
キナは言うなり走り出した。
「お、おい、待てよ!」
キナを追おうとしたジャミルは、彼女が湖から上がる水音に足を止めた。
思わず、振り向いた。
タオルを纏って長い髪を払う、彼女の美しさに見とれた。
「ルチル教官……」
ルチル・リリアント。少年達の間では、憧れの的とされる女性士官だった。
「一人逃がしたわね。残ったのがジャミル君ってことは、キナね」
「あいつ、一人で帰れるかなぁ」
何故かそんな心配を口にするジャミルに、ルチルは鈴を転がすように笑った。
「さて、こんな所で何をしていたの。あなた達はもう寝ていなくてはならない時間でしょう?」
「いやあのその、なんかとっても良い匂いがするから」
湖に近づいた理由ではなく、森に居ること自体が問題にされているはずだが、彼女はそれは咎めずに、ジャミルに湖の端の茂みを指差した。
「あれじゃない? 夜来香」
「いえらいしゃん?」
「小さな淡い緑の花があるでしょ。夜になると香りが増すから、夜来香と書いて、イエライシャン。中国の名前ね」
「ふぅん」
ジャミルには、それは見知らぬ土地であり、初めて見る花だった。
「ここは元々個人所有の土地だったから、元の持ち主が好きで植えたのが増えたのでしょうね。あちこちにあるわよ」
「それでこんなに匂いが……」
「素敵でしょ。だから、私も好きで来てしまうのよ」
そう言って、ルチルは微笑んだ。
「教官も?」
「だから、私がここに居たってことも、黙っててよ」
囁くようなその声音に、ジャミルはこくんと頷いた。それきり、彼女はジャミルを咎めるようなことは言わなかった。
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