Camille Laboratory Top機動新世紀ガンダムX>創作小説>言葉なき恋歌

「わかりました。そちらへお掛けください。……ちょっといいですか」
 診察室に入り、椅子をすすめながらテクスが言うのに、女性は頷いた。テクスは市で買ってきたものを机の上に置くと、カーテンを少し開けてジャミルに声を掛けた。
「ただいま。診察があるから、また後でな」
 相変わらず、こちらを見ている以上の表情を少年は見せなかった。
「お待たせしました。さて――」
 テクスが声を掛けても、女性はカーテンの方から目を離さないでいた。
「あの……ドクターお一人ではないって、本当だったんですね」
「え?」
「そんな話を聞いたものですから。奥様ですか?」
 テクスは目をしばたいて、微かに口の端を上げた。
「まだ17歳の男の子ですよ、ジャミルといってね。身寄りがないもので、縁あって世話しているんです」
「そうだったんですか」
 軽く見開いた目を伏せる、その彼女の微かに揺れる声音は、ジャミルに何か思うところがあるようだった。身寄りのない子どもを引き取って育てるなど、今の世の中では珍しい話ではない。それにしても妻が居ると思われていたとはね、と、テクスは内心苦笑した。
「それで、貴女はどうされましたか」
 女性の話を聞き、診察をしたテクスではあったが、女性から聞いた事情を考えると、その結果を告げるのに戸惑いを見せた。
「はっきり仰ってください――覚悟は、出来ていますから」
 こちらを見据えてくる女性の瞳に、テクスは軽く息を吐いて口を開いた。
「貴女の想像通りだと思います」
 女性ははっと息を呑むと、ひざの上で握った拳に力を入れた。
「3ヶ月、なのは間違いないと思います。どうされますか?」
 覚悟は出来ていると言いながらも、女性はやはり動揺しているようだった。
「ちょっと、考えさせて貰えますか」
「勿論。貴女自身の体のことですから。どうしたいか決まれば、また来てください。もし決まらなくても、来週またみせてください」
「分かりました」
 女性は細い声で答えると、会釈をして去っていった。暗い雲が立ち込めていた空から、ぽつりぽつりと雨が降り出して、女性の後姿は見えなくなった。


「終わったよ……おや、どうした?」
 カーテンを開けると、ジャミルは診察室の扉の方を凝視しているように見えた。先程の女性が気になるとでもいうのだろうか。――或いは、そうかも知れなかった。そんなジャミルを見て、ようやくテクスも何が引っかかっていたのかを思い出したからだ。
「そうか、似ていたかも知れないな」
 市でようやく手に入れた貴重なコーヒーを淹れながら、テクスは戦時中に出会った長い金髪の女性の姿を思い浮かべていた。
 ルチル・リリアント。連邦軍ではジャミルの上官として教育士官の任についていた女性である。しかし、彼女は任務によりジャミルの前から姿を消し、二度と戻ることはなかった。もう遠い彼女の面影と、先程の長い金髪の女性の姿はどこか重なるようだった。

「飲むか?」
 コーヒーカップを渡すと、ジャミルはしばらくその暗い水面を覗き込んでから、くいっとカップを傾けた。こくんと飲み込むも、けほけほとむせる、その様は年相応よりずっと幼く見えた。テクスもカップを手に、ジャミルの隣に腰掛けた。
「ゆっくり味わって飲むんだな、次は何時手に入るか分からんのだから」
 テクスはそうジャミルに話し掛けながら、上物とは言えないまでも、久しぶりのコーヒーの香りを楽しんでいた。市に出掛けると、珍しいものがあれば出来るだけ手に入れるようにしていた。何がジャミルの心を開く鍵になるか分からないからだ。コーヒーの香りや苦味が何らかの刺激になればいいと思っていたが、それよりも、先の女性が鍵になってくれるかも知れない。しかし、彼女は今問題を抱えている。そのことが、テクスには重かった。
「彼女はな、望まない子を宿しているんだ。この世の中、若い女性が一人で生きていくにはこういうこともあるんだが……その子を産むか、産まないか。よく考えて決断しなくてはならないというのが筋だが、その機会が与えられるのかどうかも、分からないというのがこの世界なんだ」
 ジャミルが理解できているのかどうかは分からない。けれど、出来るだけ話し掛けることで、その心の扉を叩きたい。その思いが、テクスを饒舌にさせていた。
「産むことにしても、栄養状態が悪いから、母体が持たないかも知れない。産めたとしても、この世の中ではその子はまともに育たないかも知れない。父親が分からないような子を育てられるのかという問題もある。妊娠していては仕事にもありつけない。自ずと、選択肢は絞られる……」
 コーヒーに口をつけてため息を付く。やはりジャミルに聞かせるような話ではないなと、話題を変えようとして、市で買ってきた本を取り出して見せた。
「今日は医学書があったんだ。これで誰かの役に立てればいいんだがな。こっちは詩集だ。このくらいなら、お前にも読めないかな」
 詩集を渡すと、ジャミルはそっと開いてみせた。テクスが医学書を読むのを見て、真似をしているのだ。
「……向きが逆だ」
 上下さかさまに開いた詩集を正してやると、開いたページの詩を読み上げる。


 III
    街には優しき雨が降る――アルチュール・ランボー

  巷に雨の降るごとく
  我が心にも雨ぞ降る
  かくも心に沁みゆきし
  この物憂さは何やらむ

  おお静かなる雨音よ
  地の上にも屋根の上にも
  滅入りてやまぬ心に注ぐ
  おおこの優しき雨の歌よ

  故もなくすすり泣く
  沈むばかりの心のままに
  何事なるか背くこともなく
  故も知られぬこの嘆き

  この上もなき痛みのあるは
  その故の知らざればこそ
  愛もなくまた憎しみもなく
  我が心ただ悲しみに満つ


 エピグラフ(題銘)はランボーだが、これはヴェルレーヌの詩集「言葉なき恋歌」の、「忘れられた小曲」の一節だ。この窓の外にも雨という風景の中で口ずさむには良いが、それにしてはあまりに感傷的な詩ではある。窓からジャミルへ振り向くと、こちらを見ていたジャミルと目が合った。いや、少年が見ていたのは窓の外の雨だろう。
「そう、雨の歌だ。こんな風に優しく降る雨は、人を詩人にするものだ」
 巷に雨の降るごとく、か。そう呟いて、テクスはまた窓の外の雨を見遣った。



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