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打ち切りという幻想

「論争か。よくも飽きずに続けるものだ。打ち切りだから駄作だと決め付ける者、打ち切られたから未完成であり正当な評価を得られないのだと思い込む者。皆それぞれに打ち切りという言葉をとらえている。そしてそれがまた、次の論争の引き金となろうとしている。でもそれは、ある意味では仕方がないことかも知れない。僕らは打ち切りという幻想で繋がった世代なのだから」
―― GXの打ち切りは幻想だというのか
「打ち切りと、話数短縮とは別のことなんだ」

「GXが何故39話で終わってしまったのか、それは今ではもう分からない。人が言うように、放映局の経営者の方針変更だったのかも知れない。だけどGXが39話で終わったことは、GXを理解できない人々にとって、格好の攻撃材料となってしまった。それが、打ち切りという言葉だ。GXの終わりと共に、打ち切りという言葉も消えるべきだった。けれどもそれに囚われてしまった人々は、話数は短縮されてもGXは完結しているという真実を見失ってしまった」
―― 私はあの時、少年だった。GXが打ち切りであり、未放映エピソードがあると信じて批判派と戦ったのだ。そして未放映エピソードの夢を見た。いつかそれが目の前に現れると信じた。それが全て幻だったというのか。……答えてくれ、頼む
「そう、全ては幻だ。たとえどんな未放映エピソードがあったとしても、それを自分自身で現実のものとしようとしない限り、それは手には入らないんだ。未放映エピソードを求めてさすらう時代は、もう終わったんだよ。そして、君達は、新しい未来を作っていかなきゃならない」

 「打ち切り」という言葉の負の力はGXを好きな人にもそうでない人にも働いていると言う話は先にもちらっとしてるんですが、今回は好きな人向けの話。ぶっちゃけ、上枠で言い尽くしてるような気はしますが(^x^; 打ち切りと放映短縮の違いは「ガンダムXと打ち切りと」をどぞ。

#局の人間が「打ち切り」と言うのは、打ち切った当事者としては妥当な表現。だが、「機動戦士ガンダム大全集PartII」(講談社)では、作品解説にせよサンライズ関係者の談話にせよ「打ち切り」という言葉は使われていない。

 GXの短縮がなかったらどうなっていたのか、それを知りたいという人が多いのも無理はないと思います。同様に終盤が短縮されたファーストガンダムについては色々と資料もあるのですが、GXについてはそこまでの需要がないとされているからか、そもそも資料が存在しないからなのか、それがどのようなものであったのか知る術は現在ありません。ですが、先に書いたとおり、かなり早い時期に短縮が決まっていたようでして、そうであれば表に出てくるものがないというのも頷けます。

 ただどうも、「打ち切り」という言葉が一人歩きしてしまい、「打ち切られたから未完成だ」とか、「打ち切られていなければ●●だったはずだ」という感慨が過大になっているような気がするんです。勿論自分でも第三十話「もう逢えない気がして」以降の展開がそれ以前に比べて速すぎるのは、短縮によるものであることは明らかなのでどうかと思う部分もあります。しかし、それ以前の展開が緩すぎたので後半はテンポが良くなって寧ろ好印象だという人もいるくらいですし、結果として判断するなら最終話での決着の付け方が良かったから「終わりよければ全て良し」なんじゃないかなと思っています。

 ただ、あくまで一説として、短縮前の話数は全46話であり、短縮されたのは7話分であるという話もあり(アニメージュ1997年2月号)、もしそうであれば、以下のような計算は出来ます。

 終盤の急展開分の話数 #30〜39:10話分
 短縮でない本来の話数 #30〜46:17話分(−7話)

 これを割ると10÷17=0.588となります。つまり、#30以降はそれまでの3話分を2話で描いているようなペースと考えられます。それまでが緩やかなペースであったために速く感じられるのは無理もありませんが、案外普通のペースなのかも知れません。2クールまでの1エピソード5話というのは時間を掛けすぎで、これを3〜4話にまとめると#25までに5〜7話くらい余るので、後半短縮された7話分と釣り合ってしまうのかな、という気もします。

#もし全50話と考えると、10÷21=0.476。2話分を1話の計算になります。SEEDを見てて、「この2話を1話にまとめてくれたらいいカンジなのにー」とか思ってたことを考えると、GX後半のペースはやはり良かったのかも(^^;

 その中で、これだけは語らなくてはならないことを網羅した上で、削れるところは極限まで削りつつも、例えば第三十七話「フリーデン発進せよ」では、それまでのGXが大事にしてきた丁寧なキャラ描写は削られずにいて好感が持てるものでした。とてもあと3回で終わるとは思えないようなムードですよこれは(^^; #38での戦後生まれの会話とかもそうなんですけど。本放送当時、ほんとにちゃんと終わるのかね、とかなり本気で心配してました。

 でも、この急展開の終盤においても、「描かれなければならないものが描かれていない」ということは殆どないと思えます。最終話で結論はちゃんと示してみせて、あんな素敵なエピローグまでついていた。自分など、これで心洗われてしまったんですね。「大人のガンダム」でも、ニュータイプ話が未消化みたいな書かれ方をしてましたが、あんなに綺麗に決着がついたのに何でこんな話が出てくるのかがピンとこないんですよ。GXほど話が明快なガンダムもないと思うんですが。

 物足りないと言われる筆頭が宇宙で出てきた新キャラのランスローやパーラ、あと最後の敵となる兄弟の背景が薄いという声もよく目にするかと思います。メカの描写については、これは本当に尺の問題になってしまうので止むなしと思えますが、物語の描写としては必要最小限のものは描かれていると思えます。

 ですが、パーラがどんな風に生きてきたのか、ランスローの15年間はどのようなものだったのかというあたりは、ロイザー司令やザイデル総統のちょっとした台詞などを手がかりに、それまでのGXの世界の描かれ方からいくらでも想像を働かせることができます。これはGXが行間を読ませる演出をしているからこそできる話だと思います。また兄弟に関しても伏線は張られていたものなので、見返してみると発見できるものも多いのではないかと思います。

 DVD発売にあたって、短縮前の本来の話数で映像を補完して欲しい、という声も耳にします。ですが、あれから8年経って、当時のスタッフに同じテンションを求めることは不可能ですし、本来の話数分の脚本などあるはずがないとも思えます。物足りない部分は、見た人それぞれが想像を膨らませればいい。受け手にボールは渡されていると思うんですね。GXは世界観がしっかり作られているだけに、背後に想像できるものは多いのです。だからこそ、自分は今でもGXで色々書いていられるんですが。

 まぁでも20年経って小説が出たボトムズの例もありますから、小説版くらいあっても良いんじゃないかなぁとは思ったりします。でもそれで「描かれなかった本来の物語」というものが描かれることはないんじゃないかなとも思うのです。当時のスタッフは、全39話という時間で、描くべきことを描ききったと思うからです。「打ち切り」という言葉に引きずられて「未完成」だと思い込んでしまうよりも、作りこまれた物語の細部を楽しむ方が幸せになれると思うのです。


余談

 GXと同じように終盤短縮されたファーストガンダムが劇場用に再編集されて作画も直された際、後年の例になりますがイデオンの発動編のように、本来の終盤の展開を描くこともできたはず。でもそれはなされずに、逆にTV版短縮に際し削られたシャリア・ブルのエピソードさえなかったことにしてしまってでも、劇場版としてのまとまりとクオリティを追求された結果になりました。

 TV版は製作中にニュータイプの概念が出来ていったのに対し、劇場版は最初からニュータイプありきで作られているのに、「ニュータイプ、シャリア・ブル」の話が抜けてるあたりがちょっと凄いなぁと自分は思ってしまうのですが(^^; だってこの人が居てこそ、Ζのシロッコが「木星帰りのニュータイプ」である説得力の裏打ちになってるというものなのに。だからΖの前史はファースト劇場版だというのは、ちょっとどうなのかなぁという気もするんです。ザクレロやギャンの居ないファーストなんてファーストじゃねぇっ! という部分も大きいんですけどね(Ζ#10にはちゃんとザクレロの設定図面は出てきてるし)。やっぱTV版ありきなんですよ。←何か別のものを頭に置いて書いてませんか自分。

(0409.07)


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