「はい、おまちどう」
露店の店員からシマが受け取って、ミナトに手渡したのは、ふわふわの白い綿飴。
オーストラリアでは、綿飴は“fairy floss(妖精の繭綿)”と呼ばれて、様々な色が付けられたカラフルなものだが、舞浜の綿飴は白一色のようだ。まるで空に浮かぶ雲のように。
ミナトがそっと綿飴に触れると、口に含んだところからふわぁっと融けて、砂糖の優しい甘みが広がる。これは子供の頃に故郷のシドニーで食べたものと同じ味、だと思う。
作り方が同じなのだから、同じ味になるのだろうけれど、本当に同じ味なのかどうかは分からない。あの頃は人間だった、でも今の自分は──まぁ良いじゃない。折角シマ司令と二人で来た夏祭りなんですもの、楽しまなくちゃ。ミナトは深く考えるのを止めた。
「お祭りの露店って、どの国でも同じようなものなんですね」
「それはそうだろう、同じ人間のすることなんだから」
同じ人間。
そのシマの言葉が、ミナトの胸の中にじわりと熱く沁みこんでゆく。その言葉も、受け止めている自分も、ただのデータでしかないとしても。今この世界で人間と呼べる存在は、全て量子データである幻体だ。
オケアノスのクルーの中でミナトだけがシドニーサーバー出身の幻体であっても、共に戦うセレブラントは、皆同じ人間なのだから。
そう自分を見てくれるシマの視線は温かいものだという実感がミナトにはあった。
空一面の花火を、二人で並んで見上げている。舞浜の花火は、何と綺麗なのだろう。
ドン、と花火を打ち上げるその音は大きく響き、石畳の露店は相変わらず賑やかなのに、ミナトは自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえそうな静けさを感じていた。
そして花火見物に絶好のポイントを押さえてくれたシマに寄り添って、この夏祭りの夜がいつまでも続けば良いのにとミナトは思っていた。
ぽや〜ん。
夏祭りが終わってしまって、オケアノスに戻ってきたミナトは、まだ夢見心地の中に居た。浴衣も脱いでしまい、ミナトは普段どおりの舞浜南高校の制服でブリッジでの任務についていた。浴衣も確かに良かったけれど、脱いだら脱いだで開放感はあるわよね、というのが正直な所。しかしそれよりも何よりも。
『一緒に来られて良かった』
司令はそう言ってくださったのよ〜。
ミナトの頭の中では何度もそのシマの言葉が繰り返されている。焼きアサリも美味しかったし、たこ焼きも美味しかったし、そしてあの綿飴。シドニーで食べたのと多分同じ味の、白い雲のような綿飴。シマは終始ミナトを気遣ってくれて、あんな素敵な花火まで見せてくれた。この最高に幸せな気持ちを、雲の上に居るようなと言わずして何と言えば良いのだろう。実際今、オケアノスは雲の上を飛んでいるのだけれど、そんな雲の上ではなくて。今のミナトが居るのはきっと、ダンテの『神曲』で描かれた九番目の天国と呼ばれる場所。
「余程楽しかったんですね、副司令」
そう声を掛けてきたイリエに、ミナトは目をぱちくりさせて、姿勢を直した。イリエも今は普段どおりに制服を身に着けていた。
「え、えぇ。楽しかったわよ。──浴衣のこと、ありがとう」
「どういたしまして。お役に立てて良かったですよ」
「貴女は?」
「おかげさまで」
それだけ答えてイリエは自分のコンソールに向かったが、いつになく華やぐような声音が祭りの余韻を伝えている。繰り返し訪れる舞浜の夏にあって、夏祭りが果たしている役割はミナトが実感した以上に大きなものらしかった。
「やっと捕まえられたな、礼を言いたかった」
オケアノスの舷側でそう告げるシマの見慣れた制服姿が、窓にうっすらと映るように投影されている。祭りは終わり、いつもと同じ日常が戻ってきた。付き合ったわけでもないのに自分も舞浜南高校の制服を着たキョウは、そのまま窓の外の雲を見ながら柔らかい声で答えた。
「随分楽しんでたようじゃないか、良かったな」
「……見ていたのか?」
微かに目を丸くするシマに、キョウはどこか揶揄するような笑みを向けた。
「同じ境内に居たんだぜ」
「まるで気付かなかったな」
「彼女ばかり見ていたからだろう、花柄の浴衣が結構似合ってた」
キョウにそう言われてしまえばそうなのだろう。にしても。
「君はどうしていたんだ?」
「いつも通りさ」
雲の上を明るく照らす月を見上げるキョウの声は、どこか空に抜けていくような響きを伴っていた。いつも通り、何度も繰り返している舞浜の夏祭り。明るい月を、微かに翳りを帯びた瞳で見つめながら、それきり黙ってしまったキョウに付き合うわけでもないが、シマもまた同じ月を見上げて口をつぐんだ。そこは、今とここしかない世界を開放する扉の鍵がある所。
「お待たせ、キョウ」
シマの背後の方から声を掛けてきたのは、藤色のニットを着て、両手で本を胸元に抱えたシズノだった。振り向いたシマを認めた彼女が、微笑で彼に応える。
「今来たところさ。じゃ」
後半は短くシマに告げて、キョウはシズノに寄り添うと右手でそっとその細い腰を抱いた。シズノは目を細めて、抱えていた本をキョウに示してみせた。
「ありがとう、凄く面白かったわ」
「気に入ってくれたのなら、良かった」
そう話しながら二人が並んで通路を去るのを見送って、シマはふと顎に指を当てて考え込んだ。
キョウにとって、舞浜サーバーは故郷であり、かけがえのない場所だ。リセットを繰り返しループする世界の中で、それがいつも通りの夏祭りであったとしても、彼にとってそれは何としても守られるべきものであるに違いない。
だがそれはそれとして、オケアノスにはイェル=シズノが居る。キョウが舞浜の夏祭りに行っている間、一人残した彼女に寂しい思いをさせまいという配慮はしておいたらしい。だったら彼女を舞浜に連れて行ってやれば良いのにとは思うが、事はそう単純なものでもない。彼女は何度か舞浜に降りてみたいという意思表示はしているのだが、その度にキョウは理由をつけて、やんわりとではあるがそれを拒んでいる。それ以外は何もかも、彼女の全てを受け入れているというのに。
『浴衣を着た女の子への気遣いだな。これを忘れると減点だ』
そのキョウの言葉は、彼の経験に基づく警句だったのではないか。
どちらにせよ、これ以上キョウのプライバシーに踏み込まない方が良いだろう。そう判断して、シマはミナトに任せていたブリッジに戻ることにした。
* *
そして今期もまた、舞浜に夏祭りの夜が訪れた。
「お待たせしました、司令」
浴衣姿で神社に現れたミナトを見て、シマは何も言わずに頷くと、先に立ってゆっくり歩き始めた。彼がまず足を止めたのは、甘い香りの立ち込める綿飴の露店。ふわふわの白い綿飴を手渡されて、ミナトの顔がぱっと華やぐ。
「ありがとうございます」
ミナトがそっと口にしたその綿飴は、初めての舞浜の夏祭りで食べたものと同じ味、だと思う。
店が同じということは、同じデータなのだから、同じ味のはず。──まぁ良いじゃない。折角シマ司令と二人で来た夏祭りなんですもの、楽しまなくちゃ。ミナトは深く考えるのを止めた。
「あら、二人とももう楽しんでるのね」
そう声を掛けてきたシズノを認めて、ミナトは口の中で融かした綿飴を飲み込んだ。長い黒髪を束ねて、藍に白い桔梗をあしらった浴衣を纏ったシズノは、夕闇を彩る様々な色の光の中で一際艶やかに映った。
「お先に。貴女も一人じゃないのでしょ?」
そう問われて、シズノはちらりと鳥居の方に視線を遣った。ミナトが目を向けると、見慣れたソゴル・キョウの赤い髪が視界に入る。藍の地に大ぶりの菱を染め抜いた浴衣を纏った彼は、友人達と一緒にまだ誰かを待っているようだった。キョウが傍らの赤い金魚柄の浴衣の少女に何事か話し掛ける、あれはカミナギ・リョーコではなかったか。そしてまた一人合流して、彼らは鳥居を後にして歩き始めた。
「いいのか、一緒に行かなくて」
シマにそう問われても、黙ったままシマとミナトに背を向けて、シズノはその場を去った。
「これ以上の影響を避けたいということ……?」
シズノの背中を見送りながら、ミナトはそう呟いた。シズノが舞浜に降りた影響なのか、カミナギ・リョーコがセレブラントとして目覚めつつある。リョーコとは幼なじみだというキョウは、それを危惧するのを隠さない。シズノとしては、彼がリブートの際にシズノと過ごした過去の記憶をなくしてしまったとしても、今のキョウをも思えばこそ、彼のそばには居られないというのだ。
今回が、シズノにとって初めての舞浜の夏祭りだったというのに。
シズノはどんな気持ちで今夜を待っていたことだろうか。その心中が分からないでもないだけに、シズノの背中が一人で人混みに紛れていくのを、ミナトはずっと見つめていた。想い人のためならば、どんな痛みでも耐えなくてはならないのだろうか。そう思うと、着付けのためではなく、何だか胸が苦しい。
「浴衣を着た女の子、か」
シマがそう呟いたのを、ミナトは怪訝そうな面持ちで見咎めた。その視線に気付いたシマはふと眼鏡を直すと、ミナトをちらりと見やってこう告げた。
「一緒に来られて良かったな。その、浴衣の女の子は良いものだし」
そんなことを言うシマに、ミナトは目を丸くした。息せき切るように、ミナトの高い声が突き抜ける。
「本当ですか!? 司令の浴衣も、素敵ですよ」
「あ、あぁ、ありがとう」
へにゃっと崩れた生徒会長モードのシマの笑顔に、くすりと笑いながらもミナトの胸は高鳴った。
シズノには悪いけれど、やはりこの夜は雲の上に居るような気分だ。それはシマがミナトに贈ってくれた、白い雲のような綿飴が連れて行ってくれる場所。彼と手を取り合えば、九番目の天国だろうと何処へでも行ける。ミナトは、そう確信していた。
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