Camille Laboratory : ZEGAPAIN Topゼーガペイン>創作小説>le parapluie rouge

2 四回目の四月

 舞浜サーバーに降り立つ、量子テレポートは今までと何か違うところはあったのだろうか。残念ながらキョウにその差異は分からなかった。38万キロメートルという途方もない距離を一瞬にして跳躍する、その自覚は自分の胸の内にしかないものだ。ここは今、月面のサーバー内の仮想空間だとはとても信じられない。確かにこの自分の手で、舞浜サーバーのデータを移したのだと分かってはいるのだが。

 見渡してみる限り、舞浜サーバーのリセットシステムは今回も順調に作動したようだ。
 いつもと同じ自分の部屋を目にしたら、精神的な疲れがどっと出たらしい。そのままベッドに倒れこんで、気がついたらもう外は明るくなっていた。
「それじゃ行ってくるわね。早く起きなさい、キョウ」
 そう再生される母の声もいつも通り。冷蔵庫から牛乳を取り出して口にする、その味も以前と変わることはない、同じデータなのだから当然だが。テレビで流れるニュースの内容もいつもと同じ。窓の外は、春。今朝はキョウにとって4回目の4月4日の朝だ。


 マンションのロビーに降りていくと、カミナギ・リョーコが手を振っている。気の置けない幼なじみの同級生。今日からは舞浜南高校1年D組のクラスメイトだ。
「おはよ、キョウちゃん」
 その声も、その笑顔も、いつもと同じ。どこも変わった所はないようだ──良かった。そう思ってリョーコに応えて手を上げる、キョウは微かにはっとした。
 オレはもう、カミナギに触れる資格なんてないんだ。
 いつもの入学式の朝なら、ここでリョーコとハイタッチをするはずだったが、それが出来ないまま、キョウは手を下ろした。

「何か、ちょっと大人っぽくなったよね」
 目の前のリョーコがそうはにかむのに、キョウは内心どきりとしながらその言葉の真意を探った。──いや、これはいつも通りのリョーコの言葉のはずだ、今の自分に対して言われている言葉ではない。だからキョウは、いつも通りの言葉を口にした。
「制服が変わっただけだろ。そんな短いスカートじゃ、中が見えるぞ」
 そう言われて、はっと裾を押さえる。そのリョーコの反応もいつも通りだ。
「これで普通だよ、って、キョウちゃんったらどこ見てんのよ!」
 頬を染めるリョーコを見て、キョウは僅かに表情を緩めた。

 二人で並んで、いつもの通学路を歩く。同じクラスになれたらいいねとか、別の中学の子ってどんなだろうねとか、いつも通りの会話を繰り返す。何も変わったところは見られない。今のところは。
「カワグチ君達と、仲直りできたらいいね。折角同じ高校なんだし」
「あぁ」
 キョウはリセットの前に彼らと仲直りしたばかりなのだが、今のリョーコが覚えているはずもない。そして彼らもそれを忘れて、喧嘩のやり直しになるのだ、4回目の今期もまた同じように。

「カミナギ、傘持ってるか?」
「ううん。デジカムは持ってきたけど」
 映画が好きなリョーコは、自分で入学式を撮影しようというのだ。青い空に満開の桜の下の入学式の映像を、キョウはもう何度も目にしていた。
「にわか雨が降るかも知れない」
 何となくそんな気がして、キョウはそう口にした。いつもなら降らないはずだが、今回のリセットは何が起こるか分かったものではない。
「キョウちゃんは持ってるの?」
「まぁな」
 こういうのも虫の知らせというのだろうか、キョウは出掛けに半ば無意識に折り畳み傘を鞄に入れてきていた。どこか穏やかでないキョウの心の中の印象が、そのまま舞浜サーバーのシステム環境の異変への予感として現れているようでもあった。

「じゃ、雨が降ったら入れてもらおうっと」
 事もなげに口にする、リョーコはどこまでも屈託がない。雨が降ったら──舞浜では、傘を差さなければ雨に濡れることになる。現実世界でシズノと見た、あの触れられない雨とは違って。シズノの赤い唇をつい思い出してしまって、キョウはリョーコから視線を逸らすと、そのまま空を見上げた。
 キョウの目には、舞浜の作り物の青空がやけに眩しく感じられた。

 キョウにとっては、これでもう4回目の春。過去2回のリセットでは、こんな気持ちにはならなかった。寧ろ自分だけが変わらずに記憶を保ち続けるのに、皆はまた入学式から新しい日々を過ごすことになるのだと思っていた。でも今回はそうではなかった。

 軽く握った手に、月面でシズノと触れ合ったあの温もりが甦る。その感覚は、手のひらから全身へと波のように走ってゆく。
 ここは本物の舞浜ではなく、月に抱かれた幻の舞浜だ。
 それでも、舞浜の街も、カミナギも、どこも変わってなどいない。
 変わってしまったのは、オレ自身だ。
 その認識が、キョウの胸の奥に鈍い痛みとして突き刺さった。
『私の知ってるキョウちゃんじゃないみたい』
 一昨日の8月30日に聞いたばかりのリョーコの声が耳元に甦って、キョウは軽く口を結んだ。そんなことを言ったのを、当のリョーコは忘れているというのに。


 キョウ達1年生が入学式を終え、体育館から各クラスに向かうのを、先に始業式を終えた上級生が遠巻きに見守っている。中学校の頃からの後輩に手を振ってみたり、弟や妹を心配そうに見つめていたり。中には単に可愛い子は居ないかと物色しているだけの視線もあるが、その中に、眼鏡越しの涼やかな眼差しがあった。青いネクタイの3年生の制服を着たシマは、見慣れたキョウの赤い髪に目を留めた。
 クラスメイトに混じって渡り廊下を歩きながら、彼は一人、空を見上げていた。
 つられてシマも空を見上げるが、どこも様子はおかしくない。春の穏やかな青空が、新しい門出を祝福するかのようだった。
 シマがキョウに視線を戻すと、彼もこちらに気付いたらしい。キョウは瞬きでシマに応えると、校舎へと入っていった。

「雨、降らなくてよかったね」
 一緒に帰りながらリョーコがそう言うのに、キョウも安堵を滲ませた声で答えた。
「そうだな」
 どうやら雨の予感は杞憂だったらしい。キョウの見上げる空は、いつもの青空だ。

 舞浜はどこも変わっていない。この舞浜を存在させているのは、何もキョウ一人の思惑というものでもないのだ。舞浜にはリョーコが居て、水泳部の友人達が居て、皆が居る。そのために舞浜はそこにあるのだ。たとえキョウが居なくなっても、あの月に抱かれている限り。
 マンションのロビーに着いて、郵便受けを覗いているリョーコの背中を通り過ぎ、キョウは先にエレベーターに乗り込んだ。
「じゃあな、カミナギ」
「うん、また明日ね」
 それはいつもと変わりないリョーコの声だ。扉が閉じて、キョウはもう姿の見えないリョーコの方を見遣りながら、舞浜サーバーから消えた。


 CCと同時に行われたヨーロッパ戦線での作戦も終了し、一定の成果を収めていた。だが、大規模な作戦であったこともあり、かなりの死傷者が出ているという報告が太平洋上のオケアノスに届いた。ブリッジにはシマとシズノ、そして新学期が始まったこともあり舞浜南高校の制服のまま現れたキョウが顔を揃えていた。
「その死傷者のデータ検証作業の支援に来て欲しいそうだ。良いな、イェル」
「えぇ、行かない訳にはいかないものね」
 司令席のシマにそう言われて、シズノは頷いた。死傷者が多いというのも気になるし、彼らはこちらの作戦の陽動で動いてくれたとも言えるのだ。
「オレも行くよ」
「キョウ?」
 シズノはキョウの言葉に、驚きを隠さなかった。いくらキョウがシズノのパートナーとはいえ、ヨーロッパへ行くということは、舞浜サーバーを離れるということにもなるからだ。故郷である舞浜を誰よりも大切に思っているキョウが、自分からそんなことを言い出すとは意外だった。
「今オレが離れて、舞浜が危機に陥るというのなら、どの道人類に未来はないだろう」
 キョウは静かにそう言って、舞浜を離れても良いという意思を示した。人類にとって最も安全な場所として選んだ月面に、自分自身の手で舞浜サーバーのデータを移したばかりなのだ。

 シマは眼鏡を外すと、目蓋を伏せてふと天を仰いだ。リセット後の舞浜サーバーのシステム環境は概ね順調で今のところ大きな問題はない。寧ろ、舞浜南高校で見掛けたキョウの表情の方が、シマには気に掛かっていた。
 ふと見せたあの遠い眼差し。それは彼が抱えてしまったものの重さを窺わせるものだった。
 眼鏡を掛け直したシマは、キョウに向き直った。

「休暇という訳にはいかないが、気分転換のつもりで行って来い」
「あぁ」
 シマの配慮に、明るさを含めた声でキョウは答えると、シズノの方を向いた。
「ありがとう、キョウ」
 シズノとキョウは微笑を交わし合った。
「でもオレ達が居ない間、オケアノスはどうなるんだ?」
 そのことに思い当たって、キョウはシマに向き直った。
「応援要請は出してある」
 用意していたようなシマの言葉に、キョウは肩をすくめて小さく息をついた。
「やっぱり、織り込み済みか」
「君が言い出さなければ、私から言おうと思っていた」
 シマがそう言うのにキョウが笑みを返すのを、シズノは黙って見つめていた。そして傍らのディータの方を向いた。

「ディータ、上海の三人の様子は?」
《もう少し掛かりそうですね。シズノさん達がオケアノスに戻る頃には、目覚めていると良いのですが》
「そう。私が居ない間も、三人をよろしくね」
《分かりました》
 そのやり取りに、キョウが眉根を寄せてシマを見遣った。
「まさか、あの作戦をオレ達だけで実行するために、覚醒を遅らせていたっていうのじゃないだろうな」
「いくら何でも、そこまではしないよ」
 額に手をやり、やれやれという風に首を振って、シマは薄く笑った。
「そんなことが出来るくらいなら、彼らを早々に目覚めさせてヨーロッパに行ってもらった」
「それもそうだな、すまない」
 人の心の傷ばかりは、他人がどうこう出来るものではないのだ。彼らの傷は、彼ら自身が癒すしかない。
《お二人には、明朝出発していただきます。よろしいですか?》
 レムレスがそう言うのに、キョウとシズノは頷いた。

「じゃ、明日の準備をしてくるわ」
「なら、オレも」
 キョウはそう言ったが、シズノはキョウ越しに、視界の端にシマを捉えていた。シマが目配せをするのを、キョウは自分の背中に当たるので気付かなかった。シズノの目が微かに細められる。
「大丈夫。私に任せておいて、貴方はもう休んで」
「サンキュ」
 シズノは頷くとブリッジを出て行った。キョウもとりあえず舞浜に戻ろうかと踵を返しかけると、シマが司令席を立ってキョウに近寄った。




back ◆ 6/10 ◆ Topゼーガペイン