3 赤い雨傘
ヨーロッパでの作戦には、セレブラムに与する母艦がほぼ全て参加していた。作戦を終えて、それぞれの母艦は本来の巡回空域に戻っていた。
オケアノスを発ったキョウとシズノのゼーガペイン・アルティールは、転送範囲と航続距離の限界まで飛びながら、各地に展開する複数の母艦を渡り、その度に死傷者のデータ検証の作業支援を行って、ようやく激戦の舞台となったヨーロッパに辿りついた。オケアノスを発ってから数日後に身を寄せた母艦でも、依然として生存者のサルベージ作業が続けられていた。
部屋中を埋め尽くすような夥しい数のモニタに、無数の数字列が流れていく。キョウがもう見慣れてしまったその光景は到底、死体置き場には見えなかった。
シズノが携わっているのは、単体では復元できなくなった幻体データを繋ぎ合わせて一つの個体としての再生を試みる、複合再生と呼ばれる作業だった。死体の中の使える部位のパッチワークでフランケンシュタインの怪物を作るようなものだと思えばぞっとする。単体でのデータサルベージでも、甚大なウェットダメージは記憶喪失と人格の変貌となって表面化してしまう。それが複合再生ともなれば、主体となる幻体データとはまるで違う人格となってしまう事例が殆どだった。名前や記憶の断片を受け継いでいたとしても、自分が自分でなくなってしまうというのだ。
彼女はそれがただのデータだと思えばこそ、こんなおぞましい作業が出来るのだろうか。いや、そんなことはないだろう。たとえ彼女がイェルであり、生まれながらの純粋なデータであるとしても。自分自身が何者であるかを知る以前から、自分も人間だと思っていた彼女はデータサルベージのエキスパートとしての能力を発揮していたのだから。人類側のサーバーの数は限られていて、保存されている幻体データの中からセレブラントとして目覚めるのは極僅かだ。使えるものは何でも使う、それがたとえデータの僅かな欠片であっても。それが現在の人類──セレブラムの置かれている現状だった。
キョウは小さく息をつくと、ずっと部屋の入口に居た彼に気付かずに作業に没頭しているシズノに近付き、そっとその肩に手をやった。
「少し休んだ方がいい、いくら何でも、根をつめすぎてる」
「こんなことでしか、他の人の役に立てないから」
キョウを振り向かずに、俯いたまま自分の手を見つめる、シズノの声は沈んでいた。
「そんなこと言うものじゃない。君は素晴らしいじゃないか。オレにはこんな風に他人を救えはしない」
肩に置かれたキョウの手が温かい。彼の手に自分の手を重ねて振り向いて、シズノは口を開いた。
「貴方は私を救ってくれたわ」
「君だって、オレを守ってくれているだろう」
シズノの肩に置いた手に力をこめて、キョウは応えた。シズノはようやく、表情を緩めて頷いた。
「あと少しでもう一人救えそうなの、それだけやらせて」
「分かった、向こうで待ってる」
作業の邪魔にならないようにと、キョウは部屋の入口まで戻った。ふと見遣った、コンソールに向き直ったシズノの表情は真剣そのものだ。何とかしてその命を救いたい、その想いが彼女に作業を続けさせている。やがてキーを打つ手が止まって、シズノは大きく息をついた。傍らでシズノの作業を支援していたディータに、シズノは告げた。
「ディータ、診断プログラムの監視をお願い。何かあったら直ぐに知らせて」
《了解しました。診断プログラム開始。お疲れさまです、イェル》
自分をそう呼ぶディータに、シズノは微笑んだ。彼女はAIだから、姿形はオケアノスのディータと同じでも、搭載されている母艦が違えば別の人格だ。
「これで一段落ついたわね」
ほっとした声のシズノに、ディータが話し掛けた。
《それから司令が、司令私室でお待ちです。キョウさんも》
ディータを投影したプレートが不意にこちらを向いて、キョウは瞬きをした。
「オレも?」
「分かったわ。すぐ行きますと伝えて」
《はい》
舷側の窓から、丸みを帯びた月が見える。それはまるで銀色の卵。
あの月に抱かれた卵が孵って雛が巣立つまで、どれほど待てば良いのだろうか。
その時まで自分は──自分として生きているのだろうか。
ついそんなことを考えて、キョウは大股で通路を歩くと、こちらを振り向いていたシズノに追いついた。
司令の用件とは、データサルベージとその検証作業が一段落ついたということで、二人に一時休暇を与えるということだった。この母艦とリンクしている、パリサーバーへ降りても良いという言葉に、シズノの目が軽く見開く。
『休暇という訳にはいかないが、気分転換のつもりで行って来い』
先にシマはそう言っていたけれど、まさか本当に休暇が貰えるとは思わなかった。シマの差し金か、或いは──とも思うが、キョウはそれ以上深く考えないことにした。司令の好意に素直に礼を言い、二人は司令私室を辞した。微笑を交し合う二人の手が触れ合い、互いに指を絡め合った。
「何がしたい?」
指を絡めたままその手をシズノの胸元に当てて、キョウがシズノにそう問うと、彼女はこう切り出した。
「貴方はいつも、どうしてるの?」
「いつも、って」
「デートもしたことありません、って顔じゃないわよ」
そう言われた自分の顔は、相当間抜けたものであったろう。手を離してシズノから視線を逸らしたキョウは、ばつが悪そうに軽く後頭を掻くと、思いつくまま言葉を並べた。
「街を歩くとか、何か食べるとか、映画を見るとか」
言いながらキョウの脳裏に思い浮かぶのは、舞浜の街とリョーコの顔だ。
「貴方に任せるわ」
そうシズノに言われて、とりあえずパリの街の映画館へ行くことになった。
二人が降り立ったのは雨の街。キョウは初めてパリサーバーに降りるので、システム環境が不安定になっているのだ。それは承知の上だけれど、突然降りだしたであろう雨に人々は傘も差さずに居るのが日本とは違うなとキョウは思った。
だが、街並みも道行く人も、確かにそこはパリの風景なのに、パリに来たという感慨は思ったほどにはなかった。映像で見知ったまま予想通りの街の様子だからなのか、仮想現実だと分かっているから感動が薄いのか、先に現実のパリの廃墟を見ているからなのか。それでも初めてシズノと街を歩く、そのことについては心が浮き立つのを感じていた。
銀色に煙る街で、シズノの着た藤色のニットの優しげな色合いが彼女に良く似合っている。キョウはといえば、普段着の青い袖のラグランTシャツにハーフパンツ。何にも考えてなかったからなと、赤い髪をくしゃっとかきあげた。その手に触れる、雨粒。
二人で雨に濡れながら小走りで映画館に向かう、そこは旧作を上映する名画座のようで、すぐ隣の窓口が混みあっている新作映画──とはいえ、サーバーに保存された時点での『新作』でしかないのだけれど──の封切館よりは落ち着いた雰囲気があった。その方が良いなとキョウが思いつつ古典的な看板を見上げると、そこには赤い雨傘を差した女性が描かれていた。
「シェルブールの雨傘、か」
この映画は、前にカミナギと見たな。
フランス語で書かれたタイトルに、キョウは見覚えがあった。
あれは、千葉県立高校の入試が終わって、合格発表を待つ間の日々のこと。
受験勉強に付き合ってくれたお礼だと言って、リョーコがキョウを映画に誘ったのだ。
『いいけどさ。何見るんだ?』
春休み映画が始まった頃だったが、どんな映画が上映されているのか、キョウには咄嗟に見当がつかなかった。
『舞浜会館のシネマZで、フランス名画特集やってるの。今週はシェルブールの雨傘と、ポンヌフの恋人の2本立て』
そう言って、リョーコは舞浜でも老舗の映画館の名を挙げた。春休みといえば書き入れ時だろうに、こうした特集をやるのが名画座の心意気と言うものだが、新作ではなく敢えてこうした映画を選ぶのがリョーコらしい。
『ほんとお前、映画が好きなんだな。中坊の見るもんじゃねぇだろそれ』
『もぉキョウちゃんってば、私達来月から高校生だよ』
子供じゃないんだからと、呆れた声で言いながらリョーコは封筒を開けて、キョウにチケットを手渡した。
『招待券じゃん、これ』
『雑誌で当たったんだ。この調子で高校も受からないかな』
そのリョーコの笑顔を、今もはっきりと思い出せる。今は4回目の4月だから、キョウの主観時間では1年余り前のことになる。
何故だろう。舞浜を離れたのは、リョーコから離れたということなのに。シズノと向き合う度に、リョーコのことばかり考えている。地球の裏側どころか、38万キロメートルも離れているのに。リョーコを守りたいと思って舞浜から離れたのに、これでは、今度はシズノを傷つけてしまうことになりかねない。
舞浜を発つ際、キョウはリョーコには何も言ってこなかった。今生の別れでもあるまいし、何も言う必要はなかった。尤も、何も言えるはずはないのだが。
今回の任務はキョウにとっては、いわばお見舞いであり、大きな作戦を終えた後の良い気分転換。久しぶりの春休みといったところだ。舞浜のことはシマに任せていれば安心だ。彼の顔を立てるためにも、任務はきっちりこなさなければならない。
母艦から母艦へと渡る際に多少の小競り合いに巻き込まれたことはあっても、キョウが身の危険を感じることはなかった。自分の身体そのものであるゼーガペイン・アルティールには全幅の信頼を寄せているし、何より、シズノと一緒なら自分は死なないとキョウには分かっていたからだ。
データ検証作業も一段落着いたし、ささやかな休暇を過ごせば、後はオケアノスに戻るだけ。帰路は往路よりもずっと所要時間は短くなるはずだ。1週間近く、長いような短いような不在だったが、また舞浜での日々が戻ってくる。リョーコがすぐそばに居て、水泳部の友人達と喧嘩のやり直しをする日々が。
誰も、傷つけたくはないのに。
「どうしたの、キョウ?」
脇からシズノにそう問われて、つい考え込んでしまっていたキョウは目を瞬いた。
「あ、いや、何がいいかなって。君は?」
「これ、面白そうね。丁度雨だし」
シズノが見上げているのは、赤い雨傘の絵の看板だ。シズノが見たいというのなら、それに付き合うのが筋というものだろう。たとえそれが、どんな映画であろうとも。
キョウは窓口でチケットを買うと、シズノに一枚手渡した。
パリサーバーの幻体は新作映画の方に集まってしまったのか、名画座で目に入る範囲の客席にはキョウとシズノの二人きり。やがて始まった『シェルブールの雨傘』は1964年のフランス映画。台詞が全て歌になっているミュージカル映画だ。
傘屋の娘で16歳のジュヌヴィエーヴと、自動車整備工で20歳のギイは恋人同士。だがギイはアルジェリアの戦争に行かなければならなくなり、出征の前に二人は結ばれる。シェルブールの駅で二人は愛の言葉を交し合い、別れる。ジュヌヴィエーヴはギイの子を宿しながら彼の帰りを待っていたが、身重の彼女を愛していると言ってくれた宝石商のカサールと結婚する。
2年の兵役を終えて傷ついたギイは故郷に戻ってくるが、そこに愛しいジュヌヴィエーヴの姿はなかった。傷心のギイは、叔母を世話してくれていたマドレーヌに縋ろうとし、彼女の言葉に奮起して、叔母の遺産でガソリンスタンドを始めることにする。そしてマドレーヌにプロポーズする。ジュヌヴィエーヴはもう忘れたと言って。
月日は流れ、ギイのガソリンスタンドにジュヌヴィエーヴが訪れる。二人にはお互いにフランソワーズという名の子が居る。短い再会を果たして二人は別れ、ギイ親子が戯れるガソリンスタンドには白い雪が降り積もる。
映画が終わって客電が灯り、キョウがちらりと伺ったシズノの表情は穏やかだ。
「どうだった?」
「面白かったわ、ありがとう」
その言葉に安堵して、先に席を立ったキョウはそっとシズノに手を貸すと、連れ立って映画館を後にした。
映画館に程近い、セーヌ川沿いのカフェでお茶と洒落込む。雨はまだ止まないでいて、通りにはちらほらと傘の花が咲いていた。どうやら、パリは元々雨が降ることになっていたらしい。静かなカフェの店内には、二人の他に誰も居ない。シズノはカフェオレを、キョウはエスプレッソを口にした。
「今日ばかりは、自分が幻体で良かったよ」
「どうして?」
「字幕がなくてもフランス語が分かる」
自分を茶化すようなキョウの声音に、シズノはクスリと笑った。
「ごめんなさい、そんなこと、考えたことなかったわ」
彼女は人工幻体として生まれている。人類が肉体を持っていた頃の、言葉の壁のある世界を知らないのだ。キョウは軽く手を振って、謝意を示した。
「こっちこそゴメン。映画が始まって、そういえば字幕がないんだって思って。でも後は気にならなかったし」
パリで上映するフランス映画に、日本語の字幕があるはずもない。パリに居るのだとキョウはようやく実感できた。
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