「普通なら──舞浜で貴方が見る映画には、字幕があるのね」
「新作なら日本語に吹き替えてる映画もあるんだけどな、この映画には字幕があった」
シズノの問いにそう答えかけて、キョウは半ば慌てて言い添えた。
「……んじゃないかな、古い映画って大抵そうだから」
「そうなの」
話を変えようとした訳でもないが、キョウはふと思いついたことを口にした。
「言葉の壁がないっていうのは、ある意味理想郷ではあるんだよな。だからオレ達は、国籍や肌の色が違っても、一つの目的のために一緒に戦える」
「そうね」
「けど、たとえ意思の疎通に壁がなくても、オレ達は人間だから、心の壁は存在する。想いを分かち合うのには、それなりに痛い思いもするさ」
降り止まない雨を見ながら、キョウは4回目の喧嘩を放り出してきた、舞浜の友人達を思い出していた。彼らは同じ日本人だから、言葉の壁は最初からないのだが。
「それが、ガルズオルムとは違うところよ」
静かにそう呟く、シズノの方をキョウは振り返った。
「彼らに取り込まれてしまえば、個々の心の壁などなくなってしまうわ。そして彼らは、ナーガという一つの意思の元に同化する。齟齬というものなどありえない、そこには痛みなど存在しないのよ」
シズノの話を真剣な眼差しで聞いて、キョウは口を開いた。ガルズオルムの中にも、痛みを知る者が居る。
「でも、シマのオリジナルは確固とした個人だろ? ガルズオルムでありながら」
「そうね。彼は特別だけれど、ガルズオルムにも個が存在しないという訳でもないのよ。でも彼らは個であって個ではない。今のところは、だけど」
「今のところは、か」
ガルズオルムの加速するサーバーでは、果てない進化への探求が行われているという。その先には何があるというのだろうか。そんな禍々しい世界樹の枝に、舞浜サーバーという卵を托した仮親の巣がある。それを思うと、キョウは背筋がぞくっと冷えるのを感じた。舞浜を離れているのが、酷く不安になってくる。そのキョウの表情を見て取ったのか、シズノが穏やかな声音で言った。
「月面とのリンクが確立したから、彼からある程度の情報は得られると思うわ。期待しすぎるのは禁物だけれど」
「なら、今は安心して君との時間を楽しんでいい?」
そんなキョウの言葉に、シズノは微笑で応えた。
「貴方はどうだったの?」
そう問い掛けるシズノに、キョウは瞬いてみせた。
「さっきの映画。私には訊いたじゃない」
「あ……あぁ、面白いといえば面白いんだけどさ。悲しい物語だなって」
そのキョウの言葉には嘘はない。だが、真実の全てを伝えるものではなかった。
戦争のためにジュヌヴィエーヴとは別れてマドレーヌと結婚することになるギイに、ふと自分を重ねてしまったなどとは、シズノの前では言えるはずもなかった。
どこか沈むキョウの表情を見て、シズノはカフェオレを口にした。
「確かに泣きそうになるわよね。でもハッピーエンドだもの、あれで良いじゃない」
あぁシズノはそう思うのかと、キョウは彼女を見遣った。
『ギイもジュヌヴィエーヴも何か可哀相』
リョーコはココアを飲みながら、そんな感想を口にした。
『悲しい話なのに、歌と色がうわーって来て、でもやっぱ最後は何か悲しいんだよな』
キョウはそう言って、リョーコに話を合わせた。
『多分、悲しいから、あんなカラフルな画面で歌っちゃうんだろうね。あれを普通に悲しく撮ったら、ほんとに悲しいだけの映画になっちゃう。けど、あれだけ綺麗に歌ってたら、その印象もしっかり残るでしょ。だからこの映画は、名画なんだよ』
リョーコはそう言って、見たばかりの映画の音楽を小さく口ずさんだ。
『ジュテーム、モナムールって、耳に残るよね』
『愛してます、愛しい人よか。フランス人って凄いな、駅のホームで』
銀幕の恋人達の別れの場面を思い出して、キョウは小さく息をついた。
『まぁ、あれは映画だけどね。って、あれってそういう意味だったんだ』
『字幕に出てただろ』
『そうだっけ。いーなぁ、いつか私の映画でも使おうっと』
それは勘弁してくれ、きっとオレが言わされるんだ。
キョウはそう思いながら、うっとりと窓の外の雨を見ているリョーコを横目にメロンソーダを飲み干した。
中学3年生の春休みに初めて見た時には考えなかったことだが、今ならギイの気持ちも分かるようにキョウには思えた。悲しい物語であっても、古い映画の中の恋人達がどこか羨ましく感じられるのだ。
戦争に行くということは、自分の存在が消えるかも知れないということだ。だからギイは、愛しいジュヌヴィエーヴとの間に、自分の複製を残したいと思ったのだろう。ジュヌヴィエーヴとは別れることになったが、彼女と自分の手元には、同じ名前を持つ自分の複製が残ったのだから、ギイはそれで幸せなのだ。それは多分ジュヌヴィエーヴも同様なのだろう。あの後二人が二度と会うことがなかったとしても、二人にはそれぞれに家族が居るのだ。
愚かしい戦争も止められないが生きることも止められない人類は、そうして自分の複製を残すことで歴史を紡いできた。遠い過去から受け継がれてきた遺伝子を、絡み合う想いの中で少しずつ組み替えながら未来へと渡してきた。何らかの事情から複製を残せなかったとしても、様々な人と関わり合う中で、自分が生きた証を後世に残そうとしてきた。本能とも呼ばれるそれはきっと生命の本質だ。
ならば幻体となった自分達は生命とはかけ離れたものなのだろうか。自覚する姿は生きていた頃の形態をシミュレートしているにすぎず、ただ保存されているだけの量子データだ。同じ時を繰り返すサーバーの中で、未来は閉ざされている。あるのは、データの劣化と破損という緩慢で確実な死だけ。量子コンピュータの特性もあり、自分は消えてしまっても、複製を残すことは出来ない。肌を合わせたとしても得られるものは刹那の快楽と温かな安息だけだ。
自分が生きた証さえ、想いを受け継いでくれる人に出会えなければ、初めからなかったことになりかねない。世界の真実を知るセレブラントであれば、死んでいった者達の想いを受け継ぐことが出来る。それでも、セレブラントである自分でさえ記憶の欠落がある。その底知れぬ暗闇が、ふとキョウは恐ろしくなった。
ガルズオルムとの戦いは生命の尊厳を懸けてのものであり、あり得るべき生命の本質を取り戻すことがセレブラムの目的だ。だがその目的を果たして未来が開けたとして、そこに、シズノは居るのだろうか。人工幻体として生まれたばかりに、リザレクションシステムが完成しても人間にはなれないというイェルは。卵を托した月の巣の、仮親の本来の子である彼女は、永遠に孵ることのない卵のままなのだろうか。彼女のおかげで命を取り戻せた幻体が、何人も居るというのに。
シズノが居るから、オレは今、生きているのに。
カフェオレを美味しそうに飲んでいる、目の前のシズノの顔につい見入る。
──シズノが居なければ、意味がない。
「どうかしたの?」
「君のような人を目の前にして、見惚れないで居られるとでも言うのかい?」
頬杖を付きながらの、芝居がかったキョウの台詞に、さすがにシズノはクスリと笑った。
「映画の見すぎよ」
その日、舞浜にもやはり雨が降っていた。舞浜南高校の昇降口で一人、堪えきれずに泣き出した空を見上げているリョーコに、タチバナ・ミズキが声を掛けた。
「どしたん、リョーコ。何かあったの?」
「んー。あった、んじゃなくて、ないから、なんだけど」
困った口振りのリョーコの顔を、ミズキは覗き込んだ。
「何が?」
「傘。持ってきてなくて」
そのリョーコの言葉にはっとして、ミズキも苦笑いを浮かべた。
「あはは、あたしも」
「急にだもんね」
二人で並んで雨空を見上げる、リョーコの横顔を見たミズキはこんなことを言った。
「でも、それだけじゃないっしょ。何か最近変だよ」
「そっかな」
そのリョーコの短い返答はまるで他人事のようだ。そしてリョーコは銀色の雨垂れを見遣りながら、ふとどこか物悲しい旋律を口ずさんだ。
「それって、シェルブールの雨傘? 春休みにやってた」
ミズキの挙げた名前に、リョーコは笑顔を返した。
「やっぱミズキも見てたんだ。よかったよね」
「うんうん」
同じクラスで、映画やお芝居が好きだという同じような趣味。中学校も部活も違うけれど、リョーコはミズキとは出会ってすぐに親友になっていた。二人は依然止まない雨を見ながら、先月見たばかりの映画の話題に花を咲かせた。
「カミナギさん?」
そう声を掛けられてリョーコが振り向くと、青いネクタイの3年生の男子生徒がそこに居た。その名前を思い出して、リョーコは軽く会釈した。
「あ、カノウ先輩。傘がなくって、雨宿りしてるんです」
「送っていこうか?」
その優しげな声音に、リョーコの頬が微かに染まる。
「えっ……あ、大丈夫ですから」
「そう。じゃ、お先に。気をつけてね」
「はい、さようなら」
手を振って、傘を差して遠ざかる背中を見送ってふぅと息をつくリョーコに、ミズキは目を細めた。
「入れてもらえばよかったのに。誰?」
「映研の先輩。でもミズキを置いていけないし」
「あたしならいいのに。折角先輩と相合傘のチャンスだったのにさー」
「やっだ、どうしてそんな話になるのかなぁ」
相合傘、というミズキの言葉がリョーコの心のどこかに引っ掛かる。誰かの傘に入れてもらう約束をした、ような気がする。それはリョーコの気のせいなのだろうか。
「あれ、カミナギさん、タチバナさんも。どうしたの?」
今度はリョーコにはおなじみの声だった。中学校からの同級生のトミガイだ。
「トミガイ君、よかった! ね、傘貸してくれない?」
彼の家、トミガイ商店は舞浜南高校の正門前。それを良く知っているから、リョーコは気軽にそう頼めるのだ。人の好いトミガイは、快く頷いてくれた。
「いいよ、ウチから持ってくる。タチバナさんも?」
「うんうん。助かるー」
「じゃ、待っててね」
「よかったねー」
ミズキと顔を見合わせて笑いながら、トミガイ君が居てくれて良かったと言葉を交し合う。けれど、本当なら今ここに居るはずの、誰かが居ない。
『あの人は何故遠くへ行ってしまったの』
何故か、あの映画のそんな場面をリョーコは思い出した。
ここに居ないのが誰なのか、何故居ないのか、どうしても分からない。だから何だか無性に悲しい。
春の雨が、リョーコの心の中にも冷たく降りしきっていた。
パリの街に降り続く雨をうっとりとした眼差しで見ながら、シズノは口を開いた。
「歩いてみたいな」
ふわりとしたその声音に、キョウはシズノの横顔に問い掛けた。
「雨の中を?」
「雨の中を」
現実世界で見た触れられない雨とは違って、触れれば濡れる雨の中を。
振り返ってこちらを覗き込む、シズノの菫色の瞳に、キョウは頷いた。
シズノはカフェを出ると、まるで彼女を待っていたかのようにそこにあった赤い雨傘を手にした。そのシズノの手にキョウがそっと触れて、傘の柄を右手で持つと、穏やかな微笑を浮かべて彼女に差し掛けた。通りに人影は見当たらず、静かな銀色の街だけが二人の前にあった。
二人は相合傘で雨の中を歩き始めた。優しい雨音がまるで音楽のように感じられるのは、あのミュージカル映画の余韻なのか、どこか心が躍っているからなのか。
赤い傘の下、赤みが差しているシズノの頬。赤い唇は何も言わないけれど、言葉以上に彼女の想いを伝えてくれる、その穏やかな微笑み。
一つの傘の中で寄り添い歩くうちに、二人の距離が一歩一歩近くなる。そして、シズノがふと口を開いた。
"Je t'aim."
"Mon amour."
銀幕の中の恋人達が交わした歌を、彼女に応えて口ずさむ。どこか恥ずかしそうな顔を見合わせて、二人で笑った。
『恋で死ぬのは映画の中だけよ』
あの映画には、そんな場面があった。
もしそうなら、映画にも似たこの幻のような世界で恋に死ぬのも悪くない。
月に抱かれた卵が孵るまで、夢を見ている間なら。
卵に決して傷をつけぬよう、心の中に抱いて、しっかりと鍵をかけて。
どちらからともなく見詰め合う、互いの唇が近付いて、ついに触れ合う。
銀色の森で、そして月面で二人が触れ合った時と同じデータが、重なる唇から通い合った。
キョウは左手をシズノの背中に回していたが、右手に持っていた傘をそっと手離した。両手でしっかりとシズノを抱き締める、二人の姿が一つになる。そんな二人に、銀色の雨粒が降り注ぐ。シズノの黒髪が、しっとりとその色を深めてゆく。
降りしきる雨に濡れて、本来なら体は冷えていくはずなのに、心は熱くなっていく。この雨は温かくて、そして、甘い。
このまま雨に打たれて、身も心も水に溶けていってしまいそうな感覚が、互いに触れ合ったところから通い合う。
同時にそう思った時に、二人の姿は光に溶けて、銀色に煙る雨の街から消えた。
後には、持ち手を失った赤い雨傘が、路上でぽつんと雨に打たれていた。
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