「ありがとうございました生徒会長、こんなのでどうですか?」
リョーコが広げたスケッチブックに、シマは微かに目を丸くした。
「あぁ、上出来だな」
「やっぱモデルが良いと筆が走るんですよね。じゃ、次は副会長お願いします」
「私? えぇ、良いわよ」
リョーコにそう頼まれたミナトは、手元のモニタを指先で触れて鏡面にすると、覗き込んで髪を直した。その様子をにこやかに見守るリョーコの傍らで、シマが司令席を立った。
「後は頼む」
「分かりました」
ミナトがそう答えると、シマは司令席を改めて一瞥してその場を去った。ミナトは軽く頷いて、リョーコに声を掛けた。
「作業は続けさせてもらうけど、良いわよね」
「こちらこそ、お邪魔してすみません。手早く描いちゃいますから」
そうミナトに答えながら、リョーコの手は軽やかに紙の上を走る。リョーコの描線には迷いがなく、観察眼の鋭さと、描写の的確さとが見て取れる。これもリョーコの才能の発露の一端なのだろう。
リョーコがシズノをモデルに水泳部のPRビデオを撮影した際にも、映研の一年生とは思えない見事な仕上がりで評判も上々だった。ただ残念ながら、ビデオに釣られて入部するような生徒は舞浜南高校には居なかったのだが、それは舞浜サーバーのパラメータの初期設定に依存する部分も大きいので、必ずしもリョーコの腕だとか、モデルのシズノが悪かったということではない。
いや寧ろあの場合、問題は水泳部部長のソゴル・キョウにあったのだろう、やはり。あの水泳部のPRビデオから約二ヶ月。よもやこんなことになろうとは、誰も思わなかっただろう。リョーコの手元を見遣って、ミナトは口を開いた。
「ほんと絵が上手なのね、カミナギさん」
「美術の成績なら、キョウちゃんより上ですもん」
そのリョーコの言葉に、ミナトはブリッジの下のフロアの一角でスケッチブックに向かっているキョウを見遣る。あの赤い髪はどこに居てもすぐに目を引く。
「大変な宿題ね」
「ミナト先輩は、芸術選択は何なんですか?」
「私は音楽。セレブラントで美術選択なのは、貴女とキョウだけよ」
「えーそうなんですか? じゃあ宿題多いの私達だけなんだ」
「そういうことになるわね」
リョーコの苦りきった声に同情はするが、夏休みの宿題を真面目に片付けている二人を思うと、八月三十一日に何が起こるのかをどう告げるべきなのか、ミナトは考え込んでしまった。
リョーコなら、遅かれ早かれ自分で気付くことだろう。もう知っているという可能性さえある。だがキョウは、多分その日が来るまで知らずに居るのだろう。これまでのことからすれば、彼はそうした世界の真実──それは彼が自ら手放した記憶──には、望んで触れようとはしない。
それでも少しずつ取り戻す記憶の断片から、彼が以前の彼に近付くのに、以前の彼を知る者は皆、それを望みつつも、同時にそれを恐れている。それでも時は過ぎ行き、その日は近付く。彼はその真実を、知らずには居られない。
でもその時、リョーコはきっと彼の支えになってくれるだろう。そう思うことが、彼だけでなく皆の救いになっているとミナトには思えた。
リョーコが目覚めたことは、キョウだけでなく、セレブラムにとって大きな価値を持っている。だからこそ、リョーコの詳細なデータ解析を行うことが、今のミナトの重要な任務なのだ。
「二年生だと、やっぱり宿題多くなるんですよね」
「それなりにね」
女同士の気安さも手伝うのか、リョーコはミナトには気軽に話し掛けてくる。──いや、シマ司令が居ないからだ。ミナトはそう思ってしまうと、ふと表情を沈ませた。
「ミナト先輩、大丈夫ですか」
「え? えぇ平気よ。何でもないわ。ありがとう」
「生徒会長──じゃなくて、シマ司令居ないんですし。座っても良いんじゃないですか?」
そう言ってリョーコは空いた司令席を見る。シマが席を外したのにはそんな意味があったのか。
リョーコのモデルを務めるというのもあったし、データ解析に気を取られていて、ミナトはずっと司令席の左脇の定位置で立ちっぱなしだった。
そういえば、シマはこの場を離れる前に司令席を見ていた。リョーコは本当に良く見ているのだなと、ミナトは感じ入った。
「そうね。そうさせてもらうわ」
司令席に腰を下ろして作業を再開したミナトを見て、リョーコが首を傾げた。
「何で副司令の席ってないんですか?」
「さぁ、どうしてかしらね」
「下から、中が見えちゃうからかなぁ」
リョーコがぼそっと声を潜めてそう言うのに、ミナトは寄せた膝を両手で覆って小さな声を上げる。
「そんな理由じゃないと思うわよ! ドヴァールカーのイゾラ司令だってタイトのミニだし」
通信モニタで見る司令席のイゾラがふと組み替える脚が大人の女性の色気を感じさせて、さぞドヴァールカーでは人気があるのだろうなと、同性のミナトとしても思ったりする。
「へぇ、女性の司令も居るんですね」
気を取り直して鉛筆を持つリョーコに、ミナトは頷いた。
「オストロバ司令も女性よ。能力があればそれを生かして戦うのがセレブラントだもの」
「そうですね」
誇らしげに司令席でそう口にするミナトに、今度はリョーコが頷いた。
「貴女こそ大丈夫? 訓練、ちょっと厳しくないかしら」
「大丈夫ですよ。キョウちゃんと一緒ですし」
ニッコリ微笑んでそう答えて、リョーコはちらりとキョウの方を振り返った。
「そうだったわね」
やはり同じなのかしら。ミナトはリョーコにそんな親近感を抱いていた。
ミナトがシマに導かれて今ここに居るように、キョウの存在がリョーコをこの世界に導いたのだろう。ミナトがシマの力になりたいと思うのと同じように、リョーコもキョウのリアシートに座ることで、彼の力になりたいと思っているのだろう。
その想いは少女に思いがけない力を与えてくれる。それが具体的な能力として発現しているのがあのデータリンクなのだろう。ガンナーの指示を先読みできる、以心伝心を実現する能力として。
だが想いを寄せる相手のことを知りたいと思う、その気持ちは誰にだってあるのではないかとミナトは思う。キョウとリョーコの間には互いの想いを繋ぐ絆があるようにも思えるけれど、実際に夫婦だったクリスとアークの場合でも、アークがウィッチだったという話は聞いていない。やはりウィッチとしての才能は、類稀な観察眼を持つリョーコに特有なものなのだろうか。
ふとミナトは、ブリッジの下のフロアの一角でコンソールに向かっているシズノを見遣った。どうやらシズノはシマと何か話し込んでいるようだ。
シマの退席はそういうことだったのかと思って、ミナトは溜息をついた。オケアノスのクルーでただ一人、シズノのことをイェルと呼ぶシマ司令。セレブラムの初期からのメンバーだという二人は、一体どういう関係なのだろうか。
「やっぱり、気になるんですか?」
「えっ? 何のことかしら」
リョーコはさっきまでミナトが見ていた、シズノとシマを見遣った。
「シズノ先輩。──でも大丈夫ですよ、心配しなくても」
「どうして分かるの?」
瞬きをして問うミナトに、リョーコはスケッチブックを見ながら答えた。
「何となく。はい、出来ました」
「ありがとう、素敵な出来栄えね」
「美人は描いてて楽しいんです。こちらこそありがとうございました」
スケッチブックを見せられてにこやかに微笑むミナトにぺこりと頭を下げて、リョーコは鉛筆とスケッチブックを片付けた。
「じゃ、行きましょうか」
シマの方を横目でちらっと見てどこか勝気な笑みを浮かべたリョーコに、ミナトは髪を直しつつ頷いた。恋する乙女同士、データリンクなどなくても心は通じ合うもの。ミナトとシマはお似合いだと言ってくれたリョーコは、ミナトにとって大切な存在となりつつあった。
「あーっそっかぁ、シズノ先輩描きそびれちゃった」
ブリッジの下のフロアに降りてきたは良いものの、シズノと話しているシマにどう声を掛けたら良いものかとミナトが思っていると、リョーコはそんな風に声を上げた。シズノとシマが話を止めて、こちらを振り向く。
「あら、もう宿題は終わったの?」
「はい、おかげさまで。生徒会長、さっきはありがとうございました」
リョーコはシズノに答えつつ、傍らのシマに改めて頭を下げる。シマがリョーコに軽く頷いて、ミナトに視線を向けると、ミナトは瞳で頷いた。
「キョウちゃんと、クリスさんと、ルーシェンさんと、生徒会長と副会長。これで人物五枚、終わっちゃったんです。ほんとごめんなさい」
「別に良いわよ、気にしないで」
指折り数えつつリョーコがシズノに詫びている間に、ミナトはリョーコのデータ解析の進捗について小声でシマに報告する。シマはその報告に頷いて、作業の継続を指示した。
「キョウちゃんは……まだかなぁ」
横目でキョウを伺うリョーコの視線と、こちらを向いたキョウの視線とがぶつかった。キョウは鉛筆を持った右手で髪をくしゃくしゃとかきあげると、スケッチブックに向き直って低い声で答えた。
「あとちょっとだ」
「そっ」
キョウに近付いて、それでも少しだけ離れてベンチに腰掛ける。こんな声を出すときのキョウには、干渉しすぎない方が良い。手元を覗きたいけれど、覗いちゃ駄目。そのくらいのことは、幼なじみのリョーコにはよく分かっていた。
「よっしゃ、終わり! さんきゅな、先輩」
「え?」
晴れ晴れとしたキョウのその一言に、リョーコは目を丸くして、彼の視線の先を見る。
「どういたしまして」
そう答えるシズノは、陽だまりのような柔らかい微笑を浮かべている。
「えーっ!?」
リョーコがキョウのスケッチブックを覗き込もうとすると、スケッチブックはすっと上方に引き抜かれた。
「……これは凄いな」
「同感だ」
キョウのスケッチブックを取り上げたシマと、いつの間にかブリッジに戻ってきていたルーシェンとが、短い感想を口にした。
「何だよ生徒会長っ、ヒトの絵を勝手に見てんじゃねーよ! ルーシェンまで!」
頬を赤らめたキョウがスケッチブックを取り戻そうと座ったまま手を伸ばしても、シマはすっと手を上げてしまった。
「ブリッジで宿題を片付けるのを好きにさせていたんだ、少し見るくらい良いだろう」
「よかねぇよ!」
キョウの意をまるで解さない振りをして、シマはスケッチブックをその頭上で広げてページを繰った。ルーシェンがその下から覗き込む。二人はそれぞれに瞬きをしつつスケッチブックを見てしまうと、シマはそれをぱたんと閉じた。
「済まなかったな」
「だったら最初っから見んじゃねーよ」
シマがキョウにスケッチブックを返そうとするが、今度は脇からリョーコの手が伸びた。
「こらカミナギっ!」
「いーじゃん、私とキョウちゃんの仲じゃない。見せてよ」
「親しき仲にも礼儀ありっつーだろーが!」
「今更何言ってんの……うわぁ」
リョーコはページをめくりつつ、キョウのスケッチを眺めていく。
「私の後、全部シズノ先輩じゃない」
少しずつ違うシズノが四枚描かれている。そのリョーコの声に、ミナトはシズノを振り返った。
「いつの間にモデルになってたの? そんな素振り、なかったじゃない」
「私も気付かなかった……どうして」
リョーコの声が珍しく沈んでいる。キョウのことは自分が一番分かっている。そう思っていたのに。
──そもそもよく考えてみたら、キョウが誰をモデルにするといって、あの場ではシズノ以外考えられないのだけれど、どうして自分は気付かなかったのだろう。
キョウはベンチのあの位置から一歩も動いていなかった。それは分かっている。ではどうやって、離れた位置のシズノに、モデルになってくれと申し入れたのだろうか。そんな声も、全く聞こえなかったのに。リョーコがそんな疑問を胸中に浮かべていると、キョウはニッと笑ってみせた。
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