イリエがキョウ達に簡単にお茶の作法の説明をして、お茶会が始まった。
「随時説明は入れるから、今日は気軽に楽しんでね」
正面に座ったイリエから笑顔でそう言われて、キョウは思わずピンと背筋を伸ばした。
「りょーかい」
「キョウちゃん、硬くなってどーすんの」
至って緊張感もないリョーコにそんなことを言われては、キョウも立つ瀬はない。
「僕のお点前も完璧とは行かないし。それこそ一服してもらえれば充分さ」
「はいっ」
クロシオにそう笑顔を返すリョーコに、キョウは小さく息を付いた。
「慣れないのはお互い様。どうぞよろしくね」
「こちらこそ。副会長のお点前だなんて、ラッキーだなぁ」
ミナトとトミガイのやりとりを横目で見ていたシマとシズノが、互いの正面に向き直るタイミングは完璧に揃っていた。特に何も言わないまま薄い笑みを交わす、二人の纏う空気はどこか独特なものだった。二人を見遣っていたキョウは、その時あることに気付いた。
シズノ先輩と生徒会長って、瞳の色が同じだ。
よく見ると黒ではなく、深い菫色の瞳。表情が揃っている様子は似てない双子にも思えるこの二人は、親戚か何かなのだろうか。
「あのぉ、シズノ先輩と生徒会長って、どういう関係なんですか?」
キョウの疑問を見透かすかのようにリョーコがそう訊くのに、キョウは内心焦りを感じていた。
──確かこの二人はクラスが違うはずだ、どう説明するつもりだ。
シマとシズノはリョーコの質問に同時に瞬くと、顔を見合わせて、シズノが口を開いた。
「私は転校生だから、シマ君には色々お世話になったのよ」
「そうそう、僕は生徒会長だからね」
二人とも別に嘘をついている訳ではない。焦る必要なんてどこにもないのに、オレは何をやっているのだろうかと、キョウはまだ少し湿る赤い髪をかきあげた。
作法室に集まったのは八人。茶道部員の四人は全員生徒会役員であり、同時にオケアノスのブリッジクルーだ。客の四人のうち、両端に座ったキョウとシズノはゼーガペインのパイロット。実に六人がオケアノス所属のセレブラントだ。
今この瞬間にスクランブルが掛かったら、六人はオケアノスへと消えることになる。残されたリョーコとトミガイはどうなるのだろうか。きっと、彼らには何事もないように世界は振舞うのだろうけれど。ついキョウはそんなことを考えてしまった。
いや、それよりも。
連鎖的に思い浮かんだことを、キョウは口にした。
「イリエ先輩、茶道部ってこの四人だけなんっすか?」
その質問には、ミナトが先回りして答えた。
「名簿の人数は規定を満たしているわよ。水泳部とは違ってね」
部活動として認められるには五人の部員が必要だ。キョウは生徒会を相手に、水泳部を認める認めないでずっとやりあっている。副会長を務めるミナトには、キョウの意図など丸見えだったのだ。
「それって幽霊部員じゃねーか」
キョウが軽い調子で言い捨てるのに、目蓋を伏せたクロシオが低く呟く。
「文字通りの意味でね」
その言葉にはっとしたキョウは、正座をした膝の上の手に落とした目を細くした。
舞浜サーバーという虚構の世界では、セレブラントにとって必要とされていないものは、その目に映らない。キョウの住む高層マンションには、かつて多くのセレブラントが住んでいたというが、今は多くの空き部屋があるだけだ。この広い作法室の、人の居ない空間をキョウは見遣った。
名簿には名前があるが姿を見せない幽霊部員は、どこへ消えたのか。
その考えに至るとキョウの背筋にぞくっとした感覚が走った。軽く握った手が汗ばんでくる。
「では、お菓子をどうぞ。自分の分を取って、次の人に回してね」
イリエがそう言って、キョウの前にお菓子の器を置いた。お点前は茶道部員がそれぞれに稽古をするが、お菓子は通常の茶会の作法通りに回される。
星空を思わせる油滴天目の器に盛られたお菓子は水饅頭。笹の葉の緑があしらわれているのが、七夕の茶会ならではの趣向だ。
茶会では正客の位置になるキョウが自分の分を取ると、イリエがリョーコに目配せをした。
「お先に」
そうリョーコはトミガイに会釈して、キョウから回された器を正面に置いた。順繰りにトミガイ、シズノとお菓子を戴いていく。
「水饅頭なんて、久しぶりだなぁ」
「そう? 私大好き。なんかキョウちゃんの方が、大きくない?」
リョーコが横目でちらりと伺うのに、キョウは眉根を寄せた。
「んなこたねぇだろ。ガキじゃねーんだから、気にすんな」
そんなやりとりにトミガイはクスリと笑って、手元の水饅頭を見た。型に流して作るものなら同じ大きさになるが、この水饅頭は一つ一つ手で形を整えているものらしい。
「同じ形のものがないのが、手作りのいいところだよ。これ、つるやさんのですよね?」
トミガイが茶釜の方を向いて尋ねると、イリエは微笑して頷いた。
「そうよ。やっぱり分かるわよね」
「つるやさんって?」
そう尋ねたのは、最後にお菓子の器が回ってきたシズノだ。トミガイはすぐ隣を振り向いて答えた。
「神社とお寺の近くの和菓子屋さんですよ。水饅頭もいいけど、若鮎がまた美味しいんです」
「そうそう、つるやさんの若鮎食べると夏って感じー」
トミガイに向けてリョーコが嬉々として続ける。お菓子が全員に回ったのを見遣ってイリエが頷くのに、キョウは黒文字を手に取った。半透明の葛のぷるんとした生地に、上品な甘さのこしあんが包まれている。ほどよく冷えた水饅頭は喉越しも良く、夏らしい涼味だ。
「うわー、効くわこれ」
水饅頭をぺろりと食べてしまって、キョウは黒文字を置いた。
「キョウちゃん泳いだ後だもんね」
泳いでいなかったリョーコも、キョウとほぼ同じタイミングで食べ終えた。
「やっぱり、つるやさん美味しいなぁ」
やや遅れてトミガイが黒文字を置くと、シズノが最後の一切れを口にした。
「こんなの、食べたことなかったわ」
「え? シズノ先輩、水饅頭初めてなんですか?」
リョーコがそう尋ねるのに、シズノは表情を緩めてみせた。
「こんなに美味しいのは、ね」
あぁ、とリョーコは頷いた。シズノは転校生だから、地元の店をまだ知らなくても不思議ではない。リョーコにはそう思えた。
静かな作法室には、茶筅の音だけが響いていた。四人の茶道部員はそれぞれにお茶を点てている。
茶道部長のイリエの所作はさすがに洗練されていて優美だ。涼やかな眼差しが注がれているのを見るだけで、凛とした空気が外の暑さを忘れさせてくれる気がする。
隣のクロシオは、普段通りどこか斜に構えているようではあっても、その真摯な表情に実直な性格を覗かせていた。
ミナトは一所懸命を絵に描いたような顔をして、小さな茶碗相手に格闘している。
端の席のシマは堂に入った風格はあるのだが、相変わらず眼鏡の奥の瞳はその表情を読ませないでいた。
まず、イリエが点てたお茶をキョウに出して一礼する。キョウもそれに応えて頭を下げた。粉引の茶碗の白い地肌に、抹茶の淡い緑が爽やかだ。
「お点前、頂戴します」
右手で茶碗を取って両手で抱き、右手で二回回す。正面を避けるのだとイリエが説明するのを聞いて、キョウはその指示通りに茶碗を扱った。
クロシオ以下の三名も目の前の客にお茶を出した。リョーコ以下の三名はキョウにならってお茶を戴き、四人はそれぞれにお茶を口に含んだ。抹茶のふんわりとした独特の香りが、口の中に広がる。
「あれ……うまいよこれ」
「うん、結構美味しい」
抹茶の渋さを覚悟して挑んだのに、思いがけずそのお茶は美味しかった。キョウとリョーコが表情を緩めるのに、トミガイは苦笑を浮かべた。
「ちょっと、渋いけどねー」
「ちょっとなら良いけど」
そのシズノの低い声に、七人の視線が集中する。
「僕のお点前では不服かな」
シマはそう言ってシズノを見据える。シズノはお茶を飲みきって飲み口を拭うと、指を懐紙で拭き、茶碗を二回回して正面に戻した。
「腕が本調子の時に、もう一度お願いしたいわね」
ご馳走様と一礼した後に、柔らかい声でそう告げるシズノの瞳は、シマを案じるような深い色を帯びていた。シマはそれを見遣って眼鏡を指で直すと、目蓋を伏せたまま微かに笑った。
「生徒会長、どうかしたのか?」
自分の分の茶碗を正面に戻して一礼したキョウが、シマとシズノに向かって問い掛けた。
「腕が利かないから泡立ちにむらがあるのよ、失敗作のお手本ね」
「おい、それはないだろう」
笑みを含んだシズノの答えに、シマは微かに目を丸くして、珍しく狼狽してみせた。その脇からミナトが、シズノに険しい目を向ける。
「まぁ、そういうこともあるわよ。均等に泡立てるのは、なかなか難しいわ」
イリエがそうとりなして、その場は事なきを得た。
キョウはシマの腕の不調の原因に思い当たって、口を開いた。
「腕って、昨日の腕相撲で痛めたのか?」
キョウが心配そうに覗き込んでくるのに、シマは眼鏡越しにちらりと視線をよこした。
「君がそう思うのならそういうことにしておきたまえ」
「何だそりゃ。悪かったな、大事にしろよ」
シマの平板な言い方が、キョウにはどこか引っ掛かる。昨日は自分もカワグチに殴られて腕を痛めていた。今はもう何ともないのだが。腕相撲の後は、普段の半分で水泳部の練習を切り上げたくらいには痛かった。その後出動要請があって、ガルズオルムとの小競り合いを終えてから舞浜に戻ってきた時には、腕の痛みを忘れていた。
単に鍛え方が違うのだろうか。いや、そうとも思えない。
そこまでキョウが考えたとき、イリエが声を掛けた。
「今日は本当にありがとう。おかげで良いお稽古になったわ。期末試験、皆頑張ってね」
「あぁ、試験前にやる意味が、分かった気がするよ」
キョウはそう答えた。この空気は、確かに悪くない。
「こちらこそ、ほんとご馳走様でした」
リョーコがそう答えて頭を下げると、茶道部の四人も礼を返して、穏やかな空気が流れた。
「イリエ先輩の前の席で良かったよ。マジでうまかった。ごち!」
そうキョウが言うのに、イリエは微笑んだ。
「こちらこそ。飲み込みが早いから、貴方が正客で良かったわ。ありがとう」
「いや、それほどでも」
後ろ頭をかいて照れるキョウを横目に、リョーコはクロシオに会釈した。
「結構様になってましたし、お茶も美味しかったですよ」
「そう言ってもらえると、ありがたいよ」
笑みを浮かべるクロシオの隣で浴衣の襟元を直しつつ、ミナトが改めて手を付いた。
「渋くて、ごめんなさいね」
「いえそんな、抹茶ってあぁいうものですから、気にしないでください」
慌てて手を振るトミガイを見ながら、シマとシズノは正面に向き直る。やはりそのタイミングは不思議と揃っていた。シマはふと頭を垂れた。
「お粗末さまでした」
「先にそう言われたら、返す言葉もないわね」
シズノが苦笑交じりにそう言うのに、頭を上げたシマは薄く笑った。そして、彼女に向けて目配せをするのに、シズノは微かに頷いた。
四人の客は作法室を辞して、茶道部員は後片付けを始めた。
「結構面白かったよね」
校舎を出て歩きながらリョーコがそう言うのに、トミガイとキョウは相槌を打った。
「お茶会の雰囲気って、気持ちが引き締まるよね」
「確かにな。でも正直意外だったのはさぁ」
「クロシオ先輩!」
シズノ以外の三人の声が揃って、笑い声が続く。
「何で茶道部なんだろうね」
「人数合わせじゃね?」
トミガイの問いにそう答えながら、案外そんなところではないのかとキョウは考えていた。名簿の人数だけでも、揃えなくてはならないのだから。
揃っている分、水泳部より良いよなと羨ましくもなる。だが幽霊部員の存在が、キョウの心には小さな棘のような痛みとして刻まれていた。
「ひょっとして、イリエ先輩に気があるとか」
「ありえねぇよ……多分」
リョーコの推論をそう切り捨てて、でも否定しきれずにキョウは眉根を寄せた。
クロシオとイリエはオケアノスのブリッジクルーだけれど、それ以上の関係はキョウには見えてこない。まして恋愛感情など、キョウに分かるようなものではなかった。
「じゃあ、僕は今日はここで。試験勉強、頑張ろうね」
正門前まで来て、トミガイは自宅に直ぐに帰る素振りを見せた。さすがに明日から期末試験では、こんな時間になって寄り道は出来ない。手を振って自宅に向かうトミガイを見送って、それまで黙っていたシズノが口を開いた。
「私も用事があるから、ここで」
「そっか。気をつけてな、先輩」
「失礼しまーす」
キョウとリョーコはシズノに手を振って、同じ家路についた。二人の背中を見送ると、シズノは踵を返した。
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