「ここにはよく来るのかい?」
注文を受けたウェイターが去って、取り合えずの糸口に話し出す。珍しいと言われるからには、ナナだってここの馴染みなのだろう。確かに、吹き抜けを大きく取った店内は明るく、今二人のいる中二階へ上がる階段の壁面に設けられた展示スペースは、店内のどの席からも眺めやすいように配置されていた。そんな店の雰囲気とお茶の美味しさで、フォン・ブラウンでも人気のあるティールームではあった。どちらかといえば女性に、だが。今日だって店を指定したのは彼ではなかった。
なのに遅いんだからな、あいつ。
そんなカミーユの苛つきなど意に介さず、ナナにしては珍しく素直に応える。
「そうかしらね。今日はほら、友達が作品を展示してるからそれもあったのだけど」
「へぇ……どれ?」
ナナには変わった友人が多いが、こういう方面の友人もいるとは知らなかった。純粋に感嘆して問う。
「あそこ。踊り場のところに青い絵があるでしょ」
確かに青い絵が見える。だが……
「あるけど……あれ絵なの?」
「見に行ってみる?」
それは本当に何の変哲もない青い絵だった。何が描いてあるというのではなく、まるで青一色なのである。わざわざ手で塗ったらしいグラデーションが美しいがそれまでだ。ただ、海原のようにも見える、その何もないシンプルさがかえって静かな吸引力を持っている。ちょっと変わっているとすれば、絵の前に水の入ったグラスがおいてあることくらいだろうか。
少々訝りながらタイトルに目をやる。
『薤露青――Kairo-Blue』
「カイロ・ブルー?」
漢字など読めはしないから、アルファベットを読む。にしても、耳慣れない音だ。さすがはナナの友人だな、とカミーユは妙な所で感心した。尤も、彼にしてもニホン育ちではあるから、むやみやたらと抵抗があるという訳ではないのだが。
「読みはそうね。ま、彼女の事だから出典は宮沢賢治の『春と修羅 第二集』かしら。その中に『薤露青』って名前の詩があるのよ」
「よく知らないんだけど……どういうの」
ナナは漢字を指し示しながら説明を始めた。
「『薤』はらっきょう……って植物があるんだけど、その薤の葉の露というのは乾きやすく落ちやすいということで、挽歌や葬送の歌に使う言葉らしいわ。その詩自体は亡くした妹を思う詩ね。もの凄く妹思いの人だったそうだから」
「挽歌か、」
この静かな青は、そういう色だったのかと気付く。
「……何故、青なのかな?」
「え?」
幾許かの沈黙の後で紡ぎだされた言葉に、ナナはかすかに戸惑いを覚えた。
「何故かって言われてもね……元々の詩に『薤露青』って出てきているんだし。大体、悲しさってブルーで表現されるでしょ」
「そうかもしれないけど、」
「確かに黒でなくて青という問題もあるわね。彼女が詩をどう解釈してこの青を描いたのかは聞けない事もないけど」
まさかこのヒトと絵の解釈の話になるとはね……と、ナナは内心どうしたものかと考えあぐねいたが、面白がっていたのも事実ではある。
「聞かなくてもいいよ」
ぽつり、と言葉がこぼれた。
「ふぅん……解釈は人それぞれだしね」
応えながら顔色を伺ってみる。が、カミーユは絵に気を取られたままだ。彼女に見える彼の横顔、それは触れただけで砕けてしまいそうなガラスを思わせた。
「きっと彼女に見えた悲しみの色がこの青だったんだろう。詩人でも同じことだけど――」
いつものように、そりゃそうよね、などとはさむのも忘れて彼の言葉を待つ。
「──記憶に、ある色なんだ」
ウェイターが階段を上がっていく。ついそちらに目を引かれると、ハイビスカスティーのポットが置かれるのが見えた。話は上でしない、とナナは声をかけて先に階段を上がった。彼女は――逃げ出したかったのかも知れない。
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