Camille Laboratory Top機動戦士Ζガンダム>創作小説>炎の記憶

『ここは……ニホンじゃないか』

 彼はどうやら、自身の炎の記憶の中に居るようだった。宇宙世紀0079年1月3日、ジオン公国軍が強行した人類初のコロニー落とし――ブリティッシュ作戦――は、地球連邦軍の拠点であるジャブローに向けて降下するよう計られたものだったがそうはゆかず、シリンダーは大気圏内で空中分解を始め、その最大の破片がシドニー付近へ落下した。細かい破片は落下コースに沿って太平洋沿岸に降り注ぎ、ニホンも例外ではなかった。幼い頃のカミーユが一年戦争開戦のこの時に住んでいたニューシートや、そのほど近いニホンの首都トーキョーもその影響を被ることになった。しかし誰も、ジオンの宣戦布告など信じてはいなかった。そんなものは宇宙艦隊がどうにかするだろうと思っていたのだ。まさか地球にコロニーが落ちてくるなどとは思っていなかったのだ。ところがそこへ突然空が落ちてきたのだ。昨日までの新年休暇の気分は何処かへ消えてしまった。通信網はあちこちで遮断され、突然闇の世界に放り込まれた子供のように人々は脅えた。そして炎の雨が降り注ぐに至り、人々はその原始の恐怖のままに逃げ惑った。炎の中では大人も子供も関係はなかった。ただ他人よりも早く、そして遠くへとこの炎から逃げ出すこと、それだけをむき出しにした人々の姿がそこにはあった。

 カミーユの家はニューシート市郊外の住宅地といったところにあった。破片は街を狙って降ってきた訳ではないが、まだ直接の被害は免れていた。カミーユは避難用の荷物を持ち出した両親に連れられて、父の勤務する軍の施設へと、人波を避けるように川沿いの道を歩いていた。その川が、人の運命を切り分けていたようだった。カミーユが見やった対岸は、さながら炎の海だった。彼は、幼い足を橋のたもとで止めた。ここで誰かが自分の名を呼んだ、と思う。

「どうしたの、早くいらっしゃい。それとも歩けないの?」
 カミーユの足が止まっているのに気づいた母が顔を覗き込む。そのやりとりに父が振り返った。
「歩けないのなら抱っこしてやるぞ」
 子供とは言ってももう小学3年生だ、いつまでもそんな扱われかたはしたくない。そんな少年のプライドをくすぐる言い方ではあった。
「いいよ、自分で歩けるから」
 言って荷物を抱え直して歩き出した息子にほっとして、両親も歩き出した。しかし、カミーユがまた歩を止めた様子に揃って立ち止まった。
「ごめんなさい、先に行ってて。すぐ追いかけるから!」
 それだけ言い放つと、カミーユは踵を返して走り出した。先ほど足を止めた橋のたもとへ向かう彼の視界に、小さな人影が入り込んでくる。その人影は次第に近くなり、橋のたもとまで来た時には判別ができるようになっていた。さっき自分の名を呼んだのは母ではなくてこの少女だったのだと、ようやく彼は思い当たった。

 少女は綺麗な髪が印象的なはずだった。だが、赤と黒の背景に映る彼女の髪は熱風に乱れ、所々縮れてしまっていた。白い肌も煤に汚れ、記憶にある彼女の姿とはまるで異なってしまっていた。でもそれでも彼女には違いない、それは確かなことだった。ここで自分も彼女の名を呼んだと思う。

「どうしたの? 何でそんな処に居るの?」
 そう問い掛けると、呆然と立ち尽くしていた彼女の顔に、意外そうな表情が浮かんだ。
「どうしてって……約束したじゃない、また会おうねって」
「そりゃしたけど、」
 そう言えば彼女と初めて出会ったのはこの橋のたもとだった。紙飛行機を飛ばしていたカミーユの前に、彼女は不意に現れたのだ。そして別れ際にそんな約束をしていた。でも別にそれは今日のことでもない、あてのないものだったのだけれど、結果的に今日その約束は果たされたことになる。カミーユが人波に逆らって小走りに橋を渡り始めると、彼女もおぼつかない足取りで橋を渡ってきた。

「よかった……もう会えないかと思った」
 よく見ると彼女の顔は半泣きだった。乱れた髪をなでつけて、荷物のなかからハンカチを出して顔を拭いてやると、彼女の天空を映した薄青の瞳はまた潤みはじめた。一拍呼吸を置いて、カミーユはまた尋ねた。
「ねぇ、どうしてひとりでこんなところに居るの?」
 彼女の住む街は既に業火の中にあった。その中を必死に川辺まで逃げて来たのだろう。彼女の他にも川辺に人はいたけれど、皆大抵川を渡って被害の少ない方へ逃げ延びてゆくようだ。幼い子供が二人で居るのをじろりと睨んでゆく大人も居たが、大抵は無視をして橋を渡っていった。程近くまで炎は迫っている、いつこの橋を火炎が渡るのか知れないという状況だった。


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