Camille Laboratory Top機動戦士Ζガンダム>創作小説>炎の記憶

「誰も居ないから。」
 ようやく彼女がそう答えを絞り出した。
「誰もって……お父さんとかお母さんは?」
「誰も居ないの。」
「どうして?」
「居ないの、何処にも居ないの!」
 彼女はとうとう泣き出した。それにつられて、橋を渡る人波の中の子供もあちこちで泣き出した。僕だって泣きたいよ、そうは思うがここで泣いたら男じゃない。そんな自負はあるから、彼女の肩を両の手で抱いてやって、彼は切り出した。
「じゃ、僕と一緒においでよ。」
「え……?」
「まず逃げなくちゃ。僕が父さんに話すから、火事が収まるまで僕たちのとこに居ればいいよ。それから探そうよ。一緒に探してあげるから」
 彼女は微かに目を見開いた。だがすぐにうつむき加減に後ろを振り向いた。人波も炎の勢いも収まらない、その向こうに彼女の住んでいた街があったのだ。彼女は、首を横に振った。
「今から探しに行く。」
「そんな……!」
 今度はカミーユが驚く方だった。
「パパもママも待ってるかも知れないもの、家に帰る。」
「無茶だよ、もうきっとこっちの方に逃げてきてるよ!」
 踵を返した彼女の腕を掴んだカミーユと、彼女の目が相対した。しばらく時間が止まったような感覚を覚えた後、彼女はひどく優しく言った。
「また会おうね」
 確かに掴んでいたはずの腕はするりと抜けて、彼女は人波の中へ消えて行った。何故だろう、何処かで同じ光景を見たような気がする。デジャヴを払うようにかぶりを振って、彼女の名を呼んでみるのだが声にならない。それに、彼女を追いかけようとしても、もうこの人波をかいくぐるのは小さなカミーユには無理なようだった。業火が風とともに呼んだのだろう、ぽつりぽつりと雨粒が人々の頭上にこぼれ落ちてきた。カミーユは苦々しげに雨を受けながら人波に流されるまま橋を渡ると、たもとの脇に逃れた。そして荷物の中からスケッチブックを取り出して一枚破くと、紙飛行機を折りはじめた。彼女と初めて会った時に飛ばしていたものだ。炎の街に向かって吹き込む風に乗せて、せめて彼女の元に届けと――。

 多分その紙飛行機は良く飛んだのだと思う。しかし黒い雨に打たれはじめて、彼女の元には届かなかったのかも知れない。暗い人影の向こうに荒れ狂う炎を睨み付けて、カミーユも元居た道へ引き返した。

 それからどうやって両親と再会出来たのかは覚えていない。軍の施設に居たのは一週間ほどという感じだったと思う。丁度ルウム戦役が終っていたかも知れない。ともあれ、シリンダーの破片の落下が収まった頃に、緊急の辞令が出たということで、父も母もジャブロー勤務を言い渡された。一家は赤道を越えて南米のジャブローへ降り立った。


 地球連邦軍の地球上での拠点であるジャブロー基地は、アマゾンのジャングルの地下にある巨大な鍾乳洞を利用して建設されていた。広大な敷地の中には、地球連邦軍の総司令部を構成するビルや大小の兵器廠が立ち並び、そこで勤務する軍属の居住区には子女のための学校まであった。それまでカミーユが住んでいたニューシート市はニホンの学研都市だったから、カミーユの父の勤務していた軍の施設だけではなくて、カミーユの母が以前研究をしていた大学などもあったし、連邦軍の駐留基地は少し離れた場所にあったから、まさに基地の中に住むというのはカミーユにとっては初めての経験だった。

 しかし何より、ジャブローには空がなかった。連邦軍の拠点であるという性質から、わざわざ地下に建設されただけあって、カミーユが毎日眺めていた空はそこにはなかったのだ。戦争は膠着状態に陥り、父も母も帰宅が遅れる日々が続いた。カミーユは、学校が休みの日には両親が不在であれば基地内の育児室へ行くように言われ、同じような境遇の子供たちと沈鬱な時間を過ごすようになっていた。思いきり川辺の道を走りたいと思っても、グライダーに乗って風になろうと思っても、せめて存分に紙飛行機を飛ばそうと思っても、そんな思いはそこにあるはずの空を奪った鍾乳洞の天井にはばまれてしまう。それに、あの日の燃え落ちる空の記憶がどうしても副旋律のように蘇ってしまう。その記憶を閉じようとすればするほど、青い空の記憶も薄れて行ってしまうようだった。いつか、炎の街へ消えた空色の瞳の少女のことも、あの日の雨のように記憶の奥底へと沈んで行った。



back ◆ 3/6 ◆ nextTop機動戦士Ζガンダム