「さっき、歌っていらしたの、シスターですか?」
教会には、他に人影は見えなかった。
「あら。聞こえました?」
口元を押さえた手の上に、少しいたずらっぽい瞳が覗いていた。
「えぇ。素敵な歌声ですね。何て歌ですか?」
「キリエですわ」
「キリエ?」
耳慣れないその言葉を、ファは問い返した。
「ミサで歌う歌なんです。『主よ、憐れみ給え。キリストよ、憐れみ給え。主よ、憐れみ給え。』それを3回繰り返して歌うんです。それだけの歌なんですけど、何故か口ずさみやすくて、つい」
シスターは、舌の先を覗かせた。
「まだまだ半人前なんです、わたし。だから、見逃してくださいね」
人懐こい笑顔が憎めなくて、ファもつい笑顔を返して頷いていた。
「憐れみ給え、か……」
穏やかな寝息を立てているカミーユを見遣って、ファはシスターの歌を思い返していた。
──憐れみとは、神の慈愛の心です。決して、安易な言葉ではありません。
ファには、神が居るのかどうかは分からなかった。ただ分かるのは、カミーユはここには居ない。それだけのことだった。居るのかどうかも分からない神に憐れみを求めて、叶うかどうかは分からない。そして、今のカミーユと自分とを確実に繋いでいるものは、こうして手に取る彼の手ではなく、寧ろあの何もない空ではないかとさえ思えるのだった。
あの空に。
カミーユが見上げているあの空に。
その先で、宇宙と繋がっているあの空に。
祈るのならば、その空に。
──あなたの空に響くように。
手のひらから伝わってくる、確かに彼が生きているその証。
生きている、空を見上げて。生きている、ゆっくりと寝息を立てて。
たとえ彼がどんなに孤独であろうとも、わたしだけはそばに居るから。
離れないから。
あなたを一人にしないから。
たとえ誰も憐れんでくれなくても、わたしだけはそばに居るから。
祈っているから。
あなたの空に響くように。
カミーユの手を取った自分の手の甲に、熱い雫が零れ落ちた。
それは分かっていたけれど、ファは、そのまま彼の手を取り続けた。
蒼い月に照らされた部屋を、優しい風が吹き抜けていった。
微かに海の匂いのするその風が、どこか温かいとファは思った。
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