『憐れみ給え』
それは主への祈りであり、神の子キリストへの祈りである。信仰を持たない立場では、そういうものに憐れみを求めるという心情そのものに理解が及ばない。カミーユはそっとイヤホンを外した。
「人は生まれながらにして原罪を負う。主よ、そんな我らを憐れみ給え。──ま、僕は物心ついた頃からそう祈ってきたからさ、それが普通なんだけれど。このあたりは信心の問題だから」
テオはそう言って、カミーユからイヤホンを受け取ると、自分も外してバイオリンを片付けた。
「却って、信仰を持たない人の強さって何だろうとも思うけど。主が憐れんでいてくださると知らずに、自分を頼りに生きていけるっていうのはね」
「──自分だけが頼りだっていうのは、思い上がっているのも同じだよ」
そのカミーユの言葉に意外なものを感じて、テオはその横顔を覗き込んだ。春の風が揺らしていく前髪に、表情はどこか隠れて見えなかった。
「それにしても一年か。早いな」
沈黙を破ったのはカミーユの方で、それは彼なりの配慮にも取れた。だからテオは話を合わせることにした。
「早いさ。また春が来て、新しい命も芽吹いてくる。やっぱり春は良いよ」
「そうだな。まるで去年と同じ景色だものな」
報じられている地球環境の悪化も何処吹く風、この街の春の光景は一年前となんら変わる所はなかった。
一年前、あの戦争は意外な結末を迎えた。何故かアクシズは地球に落ちなかったのだ。物理学者は頭を抱えたが、宗教家とマスコミはこれこそが奇跡だと騒ぎ立てた。フォン・ブラウン市は直接戦争の被害を被るようなことはなかったが、連邦宇宙軍の司令部が置かれているだけに、帰らぬ人々に捧げられる祈りは途切れることはなかった。そんな街で、カミーユは街の天井ばかり見ている日が続いた。テオと会うのが久し振りだったのは、そういった所以でもあった。
「この街は変わらないよ、何も。あんな戦争の後でも、世界は変わらない」
そう呟くカミーユの声音に、テオは息を詰まらせた。言ってはいけないとは思いながら、ついその言葉を口にした。
「まるで意味がなかったような言い方だな。なら、何であんな戦争が起きたのさ」
「戦争を起こさずに済ませるより、よほど楽だからだろう」
平板に、さも当たり前のこととして言ってのけるカミーユに、テオは思わず声を上げた。
「たったそれだけで──」
「──それだけで起きてしまうのが戦争だよ。至極簡単にね」
半ば伏せられたカミーユの瞳は、どこか重い光を放っていた。見下ろした先の自分の左手を見詰めて、右手で包みながらそっと抱くようにした。
自分を抱くようにした彼の、体の線の細さが気になった。テオはその手を取ってやろうかと思い、彼が他人に触れられるのを嫌うことを思い出して止めた。
「──もうすっかり、良いんだろ。二次検診、何か言われたのか?」
「特に何も。大体医者ってのは大袈裟なんだよ」
体の力を抜いて楽にして、そう答えたカミーユに、テオはおどけた調子で言ってのけた。
「だからなのか? ウチの教会のささやかなミサで、わざわざ楽聖モーツァルト様の大作のレクイエムだなんてさ。やっぱり大袈裟だよな」
「ピアノ弾きにまでバイオリン持たせてね」
テオの話に付き合うことにして、笑ってみせたカミーユに、テオは安堵の息を漏らした。とりあえず、この笑顔は戻ってきたのだ。一年という時間をかけて。
テオは、先日のレクイエムのメンバーの練習日に、ソプラノの彼女とファが連れ立って来ていたのを思い出した。ファは練習が始まる前に教会を後にしたが、楽譜を繰りながら確かにキリエを口ずさんでいた。珍しい、とは思ったが、自分の準備もあってあまり気に止めなかったのだけれど、今思えばこれも何かの符号のようではある。
彼女は彼のために祈るのだろうし、彼は──
|
|