「二人とも、そろそろ帰るよ」
ファの父が二人に声を掛けた。二人は口々に『はい』と応えて、階段を駆け上がった。
「カミーユは、空が好きなんだって思ってたわ」
帰路、いつものようにリニアカーの窓際の席を陣取って、流れ行く星の群れを眺めているカミーユに、ファはそんなことを言った。おもむろにそんな事を言うものだから、カミーユは微かに面食らった。
「そうだけど?」
「だってさっき、『海に帰りたい』って」
ファは何の事を言っているんだ? とカミーユは思考を巡らせた。あぁそうか、さっきの水槽の前での話だった。でも、あれは……
「それはクジラがだろう?」
「そうなの?」
ファの質問を聞いているのかいないのか、カミーユは自分勝手に言葉を継いだ。でもその口調は珍しく柔らかかった。
「でも、海も好きだな。泳げる海はちょっと遠かったけどね」
へぇ、とファの表情が明るくなる。こんな顔は結構可愛いよな、とカミーユは思ったりする。
「海で泳いだ事ってあるの?」
「あぁ、一度きりだけどね。後は眺めて居ただけだけど、それでも海は好きだよ」
そう言い切るカミーユに、ファはふと目を伏せるようにした。全く、女というのはころころ顔を変えるんだからなと彼は思ったのだが、
「私なんて海だと思って見たこともないわ」
その沈んだ声音に、カミーユは胸に微かな痛みを感じた。彼が生まれ育ったニホンは島国だったから、海は身近なものだった。しかし、ファはスペースコロニーの出身だから、それこそシリンダーの中に作られた人工の海しか知らないでいるのだ。やっとそこまで思い至って、カミーユは素直に謝ることにした。
「そりゃ……ゴメン。」
「良いのよ、海の話をきかせて。ね?」
「そうだなぁ……」
またしても表情を明るく変えたファに、カミーユは思い出せるままに海の話を語って聴かせた。自分にこんなに話せるだけの思い出があるとは不思議に思えるほどだった。南の島で見た入り日のこと、磯辺で出会った小さな生き物たちのこと、初日の出を見に行ったこと、わずかに残された砂浜まで潮干狩りに出かけたこと……そんな話をしているうちに、家路は終わりを告げようとしていた。コロニー内部の時間設定は夕刻を迎え、作り物の空にも朱い光が混ざり始めている。カミーユがファの両親に丁寧に礼を述べた後、彼らは先に自宅へ戻ったが、彼はファと二人でそんな空を眺めていた。いつになく饒舌に喋った後だったのと、背景の妙とのおかげで二人は言葉も失っていたが、ファが『もう帰るね』と言って彼に向き直った。
「ね、いつか海へ連れてってよ。本物の海に。」
逆光の位置にあって少し振り返った感じの彼女の顔は、少し大人びて見えた。気おされたというのではないが、言外の雰囲気にカミーユは少々飲まれてしまったようだった。しかし彼は、それでも真摯に返してみせた。
「え……? 分かったよ、いつかね」
それは、叶うのかどうかも分からない、幼い約束だった。
2 初めての海 〜UC0088〜
いつかあの海へ帰りたい、そんな事を思った。
でもそれが何処の事なのか私には分からなかった。
いきなり何を思い出したのかしら、とファはふと我に帰っていた。
あれはもう4年は前の話になる。グリーン・オアシスに引っ越して初めての夏、カミーユを誘ってクジラを見に行った時のことだ。そう言えばあの時、『本物の海に連れてって』などと約束をした覚えはある。結果的にカミーユのおかげでこうして海を眺めているのだけれど、私は一人で海を見たかった訳じゃないのよ、とファは内心ため息をついた。
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