今ファとカミーユが暮らしているのは、ヨーロッパの島国アイルランドの首都ダブリン。エゥーゴとティターンズ、そしてアクシズの三つ巴の戦いの終止符を打つことになった「グリプス2の攻防」の後、心身を酷く傷つけてしまったカミーユは、療養のために一旦サイド1・1バンチのシャングリラでアーガマを降り、一月ほどしてからファも結果的に彼を追う形でシャングリラに渡った。そしてその後の情勢の変化もあって、ふたりはこうして地球にまで降りてきたのである。地球はカミーユの生まれ故郷だ、その自然が彼を癒せるかも知れない……そうすがるような気持ちも、ファに地球行きを決意させた一つの要因だった。
この町は古くからの港町で、対岸のブリテン島との間の航路は今も大小の船が行き来している。ファが働かせて貰っている病院――カミーユが通院している病院でもあるのだが――の高い階の窓からは港と海がよく見えて、それを眺めている間にふとそんな昔のことを思い出したようだった。
初めてこの目で見た海は、北国の冷たさを映す鉛色の海だった。そこからは、本物の自然の厳しさは感じられたけれど、あの日カミーユが話してくれたような暖かな魅力や美しさといったものとは無縁のような気がした。でも、クジラってこういう海に居たのよね……とそんな事まで思い出す。あの日に帰れたらいいのに、その想いは何度も何度もファの胸中に浮上しては打ち消されてゆく。
『元通りにはならないさ。俺は、自分の役目が分かってきたから』
――そう言って打ち消したのが他ならぬカミーユだったから。その声音の背景に見えた色は何かに似ている。海のことや空のことをあんなに楽しそうに語って聴かせてくれた時の穏やかで暖かな声音とはまるで違っていた、あの冷たい声の音色。あれは一体……?
「やだ、何してるのかしら私。」
何故かは分からないけれど唐突に思い出した記憶のおかげで、すっかり手がお留守になってしまっている。何だか今日はもう仕事にならないなと思うのだけれど、終業時間まであと少しと知れて、ファは残りの仕事を片付けてしまうことにした。
「ただいま、カミーユ」
返答は期待していないけれど、声を掛けないではいられない。アイルランドの夏の日は長いから、一仕事を終えて帰宅してもなお、夕陽は空を朱く染め上げている。窓辺の安楽椅子に腰掛けて窓の外を眺めている彼の頬はそんな朱い光に照らされていて、いつかの約束の日を思い出させる。大気汚染のおかげで地球の夕焼けは酷く朱く、コロニーでのそれにくらべて透明感もないのだけれど、それが却って彼の透明な表情に痛々しさを与えてしまっていた。彼は夕陽を見つめて何を思っているのか――それ以前に、見つめているものが夕陽なのだと認識しているのだろうか。考えているだけ辛くなるから、『今夕食の支度をするからね』とだけ告げて、ファは買い物の袋を抱え直してキッチンに入って行った。
夕食を終えて、湯浴みも済ませて、カミーユは静かな寝息を立てはじめた。部屋の明かりを落として彼にそっとおやすみを言い、ファはスタンドの明かりを灯して看護学校入試の参考書を広げた。カミーユがいつまでこんな状態でいるのか見当はまるで付かない。であれば、自分にできる方法で彼を守ることが、今自分がしなくてはいけないことなのだと彼女は認識していた。今働かせて貰っている病院の付属看護学校の奨学生試験が近いので、彼女はその試験勉強をしているのである。アーガマにいた頃も、生きるか死ぬかという点ではそれなりに極限状況ではあったけれど、カミーユが居てくれたからどこかで安心はできていた。今も彼はそばにいるし、だからこその安心感はあるのだけれど、彼の存在はあまりにも遠い。その漠然とした不安は、まるで一面の鉛色――そう、あの北国で見た初めての海を思わせる色として、彼女の前に横たわっていた。
私が帰りたい海はどこにあるのだろう。そして、カミーユはどの海へ帰りたいと思ったのだろう。本物の海とは一体どこにあるのだろうか。いくらあの北国の海が地球上に存在する本物の海だとしても、自分の行く手を一面に塗り込めているあの海は、私の帰りたい本物の海じゃない。でも、それはどこにあるのだろうか……。
目は既に文字を追うのを止めている。カーテンをそっと開けて見やった空には、月明かりもなく、街の明かりのおかげで光を落とした星だけがまばらに張り付いているばかりだった。
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